ずいぶん前のことになるが、松原次良(じろう)先生から「オートポイエーシスについて(調べて、それをまとめろ)」という課題が出された。かなり時間がたってしまったので、その課題が今も生きているのかどうかわからないが、これはその中間報告のようなものである。なお、タイトルの「脳が、震える」というのは『Re:ゼロからはじまる異世界生活』の中に出てくるベテルギウスの極め台詞だが、ここではレビューした本のタイトルに掛けただけで、『Re:ゼロ』については何も出てこないので悪しからず。
本の中にはタイトルに内容が全くついて行ってないようなものが少なくないが、この『哲学、脳を揺さぶる』はまさにタイトルの通り、読んでいると「脳が揺さぶられる」本だ。
本当ならこの本には一章当たり1ヵ月か、できれば1年くらい(つまり全体で11年くらい 笑)かけて読み、感覚を研ぎ澄ませ、思索を深めたいところだが、私は一方で数学書という読むのにウンザリするくらい長い時間がかかる本を抱えていることもあって、それ以外の本はできるだけ短時間で読み飛ばしたい、というか読み飛ばさなければならない、という強迫観念のようなものを持ってしまっているようだ。だからこの本も1週間足らずで読んでしまった。
本というものは、どれだけ深く読むかに意味があるのであって、どれだけ速く読むかなどにはほとんど意味はない。それがわかっていながら、そうできなかった。この本に残念だと思うのは、まさにその点である。
著者の河本英夫は日本のオートポイエーシス研究の第一人者ともいうべき人で、この本にも「オートポイエーシスの練習問題」というサブタイトルがつけられているが、河本は「はじめに」の中で「本書で展開しようと思うのは、イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得することである」と述べているように、オートポイエーシスそのものに言及しているのは最終章「レッスンの終わりに」のごく一部に過ぎない。しかし、読み手はそこに至って、この『哲学、脳を揺さぶる』が紛れもなく(河本が考えるところの)オートポイエーシスの練習であったことを知るのだ。
オートポイエーシスというものの基本概念は、U・マトゥラーナとその弟子のF・ヴァレラによって提唱された「入力も出力もないシステム」というもので、その発想の出発点は「生命とは入出力関係とは全く異なる仕組みで成立している」ということにある。オートポイエーシスは発表された当初は熱狂を持って迎えられたが、その熱は程なくして冷めてしまった。少し長いが、河本がこの本でオートポイエーシスについて述べた箇所を以下に引用する。この下りを読めば、なぜオートポイエーシスが世の中からほとんど忘れ去られてしまったかがわかる(実際、ヴァレラが死去した時、その訃報は地元の新聞に小さく載っただけだったという)。
ヴァレラと議論したなかで印象に残っているのは、オートポイエーシスは哲学にも教育にもそのままでは使えないというものだった。そして、その通りなのである。だがその理由の理解の仕方については、ヴァレラと私の意見は異なっていた。(中略)私は、この構想が通常の理論ではないことを認めた上で、なお骨子とした確信だけを定式化しており、定式化そのものが完備していない点を問題にしていた。(中略)理論構想としてオートポイエーシスでは足りていない道具立てを設定しているのだから、そこにアイデアを持ち込み展開できる場合だけ、この構想を活用できることになる。
オートポイエーシスは、その意味で既に確立された水準からどれほど進むことができたかだけが問題であり、創意をもって前に進み続けなければならない。オートポイエーシスはそれがなんであるかを語ることにはほとんど意味がないかたちをしている。なんであるかを語るさいには、どこに解決できない問題が残り続けるのかが明示される必要があり、しかも、解決できない理由は実は人間のもっている数学的、文化的な記述の限界だけではない。そのため、本当の謎はどこにあるのかが次々とわかってくるような仕方で進むしかないのである。(中略)
理論構想を理解しようとするさい、構想自体が完備していないために、説明をしっかり読み取って、そこで理解できたことを応用するような仕方ではまるで対応できないことがある。学習の基本はしっかり理解することだから、理解すればやがては使えるようになると思って取りかかると、それがまったくできないのである。(中略)つまり通常の学習では足りないような構想がある。オートポイエーシスも、こうした構想として成立していたのである。
つまりオートポイエーシスとは、「オートポイエーシスとはこれこれこういうものです。だからこういう風に使えます」などと教えられるものではなく、また仮にそれを教えられたとしても、そこで学んだことを応用すれば使いこなせるようなシロモノではない、ということだ。
というと「では、オートポイエーシスを理解し使いこなすには、パラダイムシフト(パラダイム転換)が必要なんだな」と考える人もいるかもしれないが、河本はそうした甘い考えを打ち砕く。
(中略)パラダイム転換が指摘されるのは、歴史上、実際の転換が起き、その後いくぶんか時間がたった後のことである。転換後の位置からみれば、複数の異なる観点で物事を理解する枠組みが転換したように見える。歴史の後の段階で、複数の考えたかを身に付けた人が、視点を切り替えるようにしてそれを配置したとき、それをパラダイム転換という。言ってみれば、パラダイム転換は、歴史の傍観者の主張であり、対岸の火事を見ているようなものである。
実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げていく人たちは、視点の転換のようなことをしていないはずである。後に視点に要約されていくものを、繰り返し試行錯誤を通して形成しているのであって、転換すれば済むような視点はまだどこにも存在しないからである。(中略)視点を切り替えることができるのは、既に切り替えることのできる視点を知っている場合であり、知っているものの間を既に転換している場合だけである。(中略)そこから「ブレイクスルー」ができるわけではない。
だからこそ「オートポイエーシスの練習問題」たるこの本が必要なのだ。そして、この本はジックリと長い時間をかけて読む必要がある、と私が書いた意味も、これでわかってもらえるだろうか。
なお、この本は2007年に刊行されているが、これに先立つ1995年に河本は『オートポイエーシス ―第三世代システム』でシステム論としてのオートポイエーシスについて述べている。それについてのレビューは→https://www.bookreco.jp/review/177415
※この記事はブクレコに投稿したレビューに加筆したもの。
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