会場に一歩足を踏み入れると、そこにはかなりの人。人垣の後から覗くように見るしかないが、それでも目の前にある絵が「ただならぬもの」であることがわかる。『十二天像』。長谷川等伯(当時は信春)25才頃の作である。
上野の東京国立博物館に着いたのは、6日土曜日の午後4時少し前だっただろうか。公立の博物館、美術館は、とにかく閉館時間が早い。平日は5時、土日でも6時までしかやっていない(注:←今、チケットを見て気づいたが、金曜は8時までのようだ)。以前それを知らずに東京都美術館に行ったら、入館後に見る時間が30分しかないことがわかり、大あわてで会場を歩き回る羽目になった。今回の『没後400年特別展 長谷川等伯』も、前もって閉館時間を確認しておかないで行ってしまったこともあって、会場に着くまで気が気じゃなかった。頼むから事業仕分けでもっと予算付けて、遅くまで開館するようにさせてくれ~
『十二天像』に続いて、やはり等伯の同時期の作品『弁財天十五童子像』、『釈迦多宝如来像』、…と続くが、どれも見ているこちらにビリビリ響いてくる。圧巻。これが本当に25才の絵師の手になるものか
有名な『武田信玄像』や『千利休像』が長谷川等伯の描いたものだったと、今回初めて知ったが、それ以上に驚かされたのが屏風絵や襖絵だ。これまで屏風絵や襖絵は、部屋に彩りを添えるための、ある種の装飾だと思っていた。しかし、違っていたのだコレが。それらは、部屋の中にいながらにして外の世界を体感する、仮想現実──バーチャルリアリティ──のための装置だったのだ。そのことが等伯の絵の前に立ってみるとわかる。
あれは絵であって絵ではない──
描かれた木も花も鳥も岩も、紛れもなく「いのち」を宿している。高精細な画像を視覚トリックを使って3D化して「バーチャルリアリティでござい」なんていうのとは全くレベルが違う。等伯の絵は、その周りの空間の空気感、「ありよう」そのものまで変えてしまうのだから。
例えば『萩芒(すすき)図屏風』。幼くして病死した秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために描かれたというこの絵は、萩が描かれた六曲の屏風と芒が描かれた六曲の屏風との一対からなる。本当にただ萩と芒が描かれているだけなのだが、この絵の前に立つと、やわらかな「かなしみ」が胸に満ちて、本当に涙が出てくる。いい年した男が絵を見ながら泣いている、というのも変と言えば変だが、それが長谷川等伯という絵師の持つ力なのだ。
だが何より凄いのは、等伯の最高傑作といわれる『松林図屏風』である。「本当の力」を持った「本物」が渾身の力で描いた作品。これまで写真では何度も見てきた。いろいろな人の解説も読んでいた。しかし、本物の『松林図屏風』の前に立った時の感覚は、言葉では上手く表現できない。強いて言えば、魂だけが体から離れ、霧の中にぼんやりと浮かぶ松の姿を追って、どこまでもどこまでも行ってしまう──そんな感覚。
どこまでも、どこまでも、どこまでも──
そんな恐怖にも似た、現実を超えた、この世のものとは思えない浮遊感…とでも言えばいいのだろうか、そんなものを私は感じていた。
テンプレート、変えてみました。
今年の春夏はコレで行きます。
「読みにくい!」と年寄りから苦情が出ていましたので
よかったです。
あっ、こんな事書いたら怒られるかも。 笑
>情報収集量が多いので、先生には入館料を10倍程払って戴かねば! 笑
恐れ入ります。
それじゃ、入館料の差額分をしっかり還元していきたいと思いますです。
>もう、なに屋か解りません。 笑
最近、そういう人、多いです。歯科の中村先生もそんなこと言ってましたっけ。
クラニオ・キネシオ的なのが治療家の性ですよね。 同じ匂いがします。 笑
情報収集量が多いので、
先生には入館料を10倍程払って戴かねば! 笑
NHK昨日観れなかったので録画を来週観るのが楽しみです。
今週は、抱っこ紐を2つ作って、昨日今日の夜は、
宿泊管理ソフトの音声解説のチェックのバイトに行って
土曜日に生キャラメル作って
日曜日に広島往診に行って来ます。
もう、なに屋か解りません。 笑
今回の『長谷川等伯展』で、『松林図屏風』に付けられていた解説では、等伯が表現したかったものは松林を包み込む霧にあったことは明らかだが、彼はその霧を一切描き込むことなく、松の濃淡だけでそれを表す、「描かずにあらわす」という魔術のような技法が用いられている、ということが書かれていました。
この「描かずにあらわす」、あるいは「存在を消すことによって最大の効果を得る」といのは、どこかクラニオにも通じるところがあると思いませんか。
「松林図屏風」
映像で見ててもすごい奥行きを感じましたので、実物ではさぞかし、、、なのでしょうね。
あんまり博物館とか美術館には出かけない私ですが、行って見てみたくなりました。