義母の葬儀が終わって、家に帰ってきた。
私は親族とは完全に縁が切れているが、姻族とは何かあったわけではないので、いつもの引きこもりニートモードというわけにも行かず、できないながらもそれなりに社会一般の対応をすることとなった。
率直な話をすれば、しんどかった。
私がそういう親戚づきあいはできないししんどいと思っていることは義母は良く分かってくれていたので、(sololoさんそういうのダメだもんねごめんね〰️)と思っていてくれそうな気がする。
親戚一同が揃うのは誰かに何かがあったときという感じで、従兄弟と会うのは◯年ぶり、みたいなことを夫が言っていた。
失礼な話であるが、そういうのは誰かに何かがあったときにまだ動ける年齢と状態であるために親戚一同が集合できるだけで、あと10年、20年したら体の状態が悪くて行けない、ということも出てきて一族勢ぞろいということは出来ないかもしれない。
義父義母は人望があるので、家族葬とはいったものの親戚だけではなくて、たくさん人が弔問に訪れた。
お骨を家に安置して我々は帰ってきたものの、しばらくは周りの人々は義父のことを気にかけていてくれそうだ。
義父に何かない限りは、義父との付き合いもそのうち従前どおりに1年に1回や2回様子伺いする状態に戻るだろう。
義母がいた頃に感じなかったことであるが、私には脳みそ的に理解できない分からない話を義父と夫が長時間するようになって、そういう私にも話が分かるように説明してくれたり、行き過ぎた議論を止めてくれたり、義母はバランスを取ってくれていたバランサーだったのだな、と何だかしみじみとしてしまった。
そういう、人同士のハブ的な役割が得意な義母だったので、私達と義父との関係だけではなくて、義母の関わっていたコミュニティそれぞれでなんだかバランスが変わっていきそうだ。
(義母さんが居た頃はそうじゃなかったのにな)とか(こういう時はいつも義母さんがとりなしてくれてたのにな)みたいなことが起こりそうだ。
まぁでも、もう居ないものは居ない。
葬儀とは、周りの人の心の区切をつけることのできる機会でもあるのだな、と勉強になった。(人によるが)