義母との約束が叶わなくなってしまったとき、本当に悲しくて、数日しても思い出すと感情をなぞるので悲しくて、いくらでも涙が出てきたのだけど、そういうことも頻度は減ってきた。
約束は永遠に叶わないし、それはそれ、我々には我々の家と生活がある。
義父母は無宗教だったが、色んな弔問客がやってきて、各々の宗教で勝手に弔って去っていった。ある意味興味深かった。
魂があるとかないとか佛界があるとかないとかは、天動説と一緒でまだ証明されていないが心の拠り所として信じていることであるので、
私は私の宗教であるエネルギー保存の法則に則って有機体としての義母は終わり、骨とその他のエネルギーと質量に変換されて別の形になって地球に漂っているだけで意思はないものとしている。
そういうわけで、もう有機体の義母いないしな、と思って遺影を見てもただの写真としか思わないし、私の特徴である「いまここにないもの」についてあまり興味がわかない。
あれは、社会的に必要なもので、社会的でありたい義父にも必要なもので、物以上の何物でもない。
そういうわけで、思考は次のステージに移り、事務的な死後処理と物的な死後処理大変、という気持ちになっている。
やっぱり物の処理は本当に大変そうなので、何回かまた帰らないといけないだろうな、と思っているが、ひとまずは義父が整理すると言っているので、しばらくは放置して様子を見ることにする。
年末年始の旅行はそのまま行くことになった。一人でいても仕方ないし、約束は行動にしておかないと永遠に叶わない。
もう、今いる人たちとの間で思い出を作って、物は処分して生きていくのだ。
あと、ますます断捨離について思いを馳せるようになった。
今後は「他人の人生終盤の処理」をしていくことが増えるだろうから、いつも自分は身軽でいたいという思いは強くなった。
できるかどうか分からないけども。