死後の処理は難しい。
生きているということは、動物なので動いているということで、色んなものが拡散しているし、拡散していないと死んでいるも同然とも言えるのかもしれない。
死ぬのも仕方ないし、生きていて拡散しているのも仕方ないが、人ひとり消えるとその後始末はとても手間のかかるものである。
義父は義母の他にも身近な家族を亡くした経験がある方なので、有り体に言ってしまえば慣れている。
慣れている、というのは事務や葬儀手続きや連絡手順に慣れている、ということ以外に、感情の処理にも慣れていた。
急逝の報を受けてからの「今後」の話が非常に早くて切り替えの早さに私も夫もびっくりした。
葬儀が終わってからその話をしたら、大事な人を亡くしたときの心の防御方法を知っていたみたい。
その方法とは、大事な◯◯を亡くしたからといって、自分だけで幸せであることはできるし実際自分は幸せなのである、と、大事な◯◯と自分とを分離して自分は何もなくしていない、と思うのがその秘訣なのだそうだ。
そりゃ悲しいし寂しいけれど孤独でかわいそうなのではなくて、自分は完全で自分1人のみで幸せである、と考えるし実際そうであると理性で考えるらしい。
「悲しくたって、不幸に思ったって、悲劇のヒロインになったっていいじゃない、実際悲しいのだし。感情を発露することの何が悪いの?」と私が聞いたらば
「そういう自分になりたくない、ポジティブな自分でありたいと思っている」からだとのことであった。
きっと、自分の理想とする【ありたい自分】や【望ましい人格】というのがあって、それを追求している自分が好きだし死ぬまでそれを心得ていたい、ということだと理解した。
そのありたい自分や望ましい人格というのは、社会的に善いとされている人格で、私の生き方(immature)と彼の生き方(mature)は全く違うのだけれど、義父の考えていることや望む方法が分かって良かった。
義父母セットでの交流だったし、夫の心象風景としても義父の心象風景としても、義母が拠り所であったから、義父ひとりとなったときの個人が何を望んでどんなふうにしていきたいのか、ということを話せて良かった。
あと、義父と夫が揃うと「女性の方が感情が強くて理性的ではない」という意見で合意して、今まで義父&夫vs義母&私というタッグで勢力均衡がとれていたのに、義父&夫vs私となって、途端に旗色が悪い。
◯◯と考える思考実験は楽しい、みたいな話を夫がしだして、今まで義母が抑えてくれていたのに、途端に夫が超面倒くさい男になって困ってしまった。
前から面倒くさい面のある男であることは知っていたけれど、義父が至極真面目に話に参加するので、ほどほどの塩梅で終わらず延々そういう話が続くようになってしまった。
それから、LINEもお義父さんだけだと社内のグループLINEみたいになってて可笑しいような哀しいような…
お義母さ〰️ん!困るから帰ってきて〰️!
という気持ちで私はいっぱい。