仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

【昔の手帳から】 3月13日 (80年:喫茶・穂高)

2011-03-13 00:30:43 | 昔の手帳から
【1980年】(浪人)

お茶の水「穗高」 20:00頃 H

新宿發23:55


3月10日 に藝大で會つた時に決めたのだらう。
お茶の水の「穗高」 はHとよく會つてゐた喫茶店。
山小屋風の造りで、私にはとても居心地の良い店だつた。
この日は、クサカと北八ヶ岳に出發する日だつたが、出發するまでにHに會つておきたかつた。
翌14日の夕方に藝大3次の發表があり、もし落ちてゐたら、私が山から降りて來た時にはHはすでに關西に歸つてゐるだらう。
さうなると、Hに會へるためには、私が第一志望に合格して關西に行くしかなくなる。
そして、私にはその自信はあまりなかつた・・・
つまり、山に出かける前に會つておかないと、もう會へない可能性があつたのだ。
ここで何を話したかは覺えてゐない。
たぶん、2人とも合格するといいね、などといふ話をしてゐたのだらう。
しかし、2人とも合格するとなると、私は千葉から關西、Hは關西から東京と、入れ違ふことになつてしまふ。
と云つて、2人とも落ちると、私は千葉のままでHは關西のままとなり、これまた會へない。
2人が會へるためには、どちらかが合格し、どちらかが落ちるしかないのだ。
そして、その結論はもうぢき出ることになつてゐた・・・

北八ヶ岳へは、それまでに何度か登つてゐた。
しかし、それはいづれも八ヶ岳の西側からで、東側(佐久側)から登つたことはなかつた。
今囘は、登る人の少ない佐久側から登らうと決めてゐた。
登る人が少ないといふことは、ラッセルが多くて、受驗でなまつた體にはしんどいかもしれなかつたが、それもまたいい記念になると思つたのだ。
乘つた列車は、新宿を23:55に出る南小谷(みなみおたり)行の普通列車で、中央線下りの最終。
この列車は山屋の間では有名な列車で、登山シーズンになると座る爲には2時間以上前から竝ばなくてはならず、アルプス廣場といふ廣場に長蛇の列が出來る。
しかし、3月中旬は山に登る醉狂な者もさほど多くないので、行列も長くはなかつた。
無事に座席を確保し、ひと息ついたら、すでに日付變更線を越えてゐた。
あとは出來るだけ眠つておくだけだつたのだが・・・

眠れぬままにHへの思ひを綴つた文章が2篇、手帳の後ろに書かれてゐた。
いま讀むと、赤面どころか、恥づかしくて叫び出したくなる。
なので、いくら自分の爲にこれを書いてゐるとはいへ讀んでくれる人もゐないとは限らぬので、いかな厚顏無知な私でもさすがにここへはよう書かん。




【1981年】(1囘生)

寫眞出來上がる豫定(10:00)

ICI石井 L.スパッツ購入(\3,300。細引¥400。トコ¥540)

お茶の水「穗高」

シイハラに會つた


3月11日 に西友の寫眞店に出した寫眞が出來上がつたらしい。
何の爲のどのやうな寫眞なのか、まつたく覺えてゐないし、そもそも西友がどこにあつたのかすら覺えてゐない。

「ICI石井」といふのは水道橋にある登山用品店。
水道橋にはほかに「さかいや」、「ヴィクトリア山莊」などもあり、登山用品店が多かつた。
ロングスパッツはソックスと登山靴を雪から守るもので、雪山での必需品。
持つてゐない筈はなかつたのだが、わざわざ買つてゐるといふことは無くしてしまつたのかな?
「トコ」といふのがよくわからない。
登山靴の防水クリームがそんな名前だつたやうな氣がする。
當時の靴は裏出革で出來てゐたので、防水クリームを薄く何度も塗つておく必要があつた。

この日もお茶の水の「穗高」に行つてゐる。
奇しくも前年の同じ日にも行つてゐる。
もしかすると1年前のことが忘れられなくて行つたのだらうか。
我ながら女々しい男だ。

シイハラといふのは、C高の同級生。
確か1年の時に同じクラスだつた。
アニキがとても優秀だつた(現役で東大)所爲で、彼は剽輕者の役割を自分に課してゐるやうなところがあつた。
京都に遊びに來た時に泊めてやつたことがあつたが、その時に彼が東京藝大の樂理に入つたといふのを聞いて、ひつくり返つた。
決して音樂なんて顏ぢやあない・・・
この時の書き方だと、約束して會つたといふ感じでもなささうだ。
偶然出會つたのかな?




【1983年】(3囘生)

(風呂終了)


私が住んでゐた學生アパートは、共同トイレ&共同風呂だつた。
トイレは凄かつた・・・
まさに筆舌に盡し難いといふ状態だつたので、描寫は避ける。
風呂は1週間に2囘だか3囘、大家さんが沸してくれた。
ちなみに、アパートのあつた岩倉といふところは風致地區で、錢湯はなかつた。
一番近い錢湯は、叡電で2驛南の修學院まで行かなくてはならない。
ここで「(風呂終了)」とあるのは、學生がみんな歸省してゐなくなるから風呂はもう沸さないよ、といふこと。
でも、敢て()書きしてゐるところが微妙に怪しい。
この頃までには、私たちは風呂の沸し方(プロパンガスだつた)を知つてゐたので、たぶん自分たちで沸してゐたのだらう。
その後、大家さんに交渉して風呂の自治權を獲得し毎日入れるやうになつたのだが、まだこの時點ではアングラだつたやうだ。







コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 炉心溶融 | トップ | 2011.03.06 ~ 2011.03.12 の... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あべっち)
2011-03-16 02:05:27
シイハラは当時河合塾の臥薪寮という学生寮で同じ釜の飯を食った。百合ヶ丘にあった。高校時代は余り知らなかったかな。


エノサワ、ミサワは記憶がある。なつかしいね。
返信する
あべっちさん (仙丈)
2011-03-16 08:13:38
シイハラは1年B組。
いつも剽輕な言動をつてゐたので、まさか音樂關係(樂理)に進學するとは思はなかつた。
エノサワは東工大、ミサワは東京理科大。
思へば、ぼくも高3までは理系だつたんだなあ・・・(笑)
天文學者になりたかつたんだけどね。

返信する

コメントを投稿