父の横顔、それは切れ切れの思い出
晩年の父(安藤富次―明治34、1901年生)
師範学校志望したが、百姓の長男は農家を継げ(進学を断念)言われて家出して、浅草の有名な活弁士楽天の家に住み込む。だが、3か月でやめてしまう。「家の掃除洗濯とカバン持ちに嫌気がさした」。帰郷したが放蕩無頼の青年生活(親族会議で勘当になり弟の三郎に家を継がせることになったが、土壇場で祖父勇吉があわれになって勘当は取りやめになる。弟は牛久の町でタクシーの運転手になる)
牛久の町で自転車店を開業(オートバイを乗り回す)。母の「きく」(木更津郊外の金田村出身)と結婚、長女弥生誕生、きくは小料理屋を開く。
ある日突然、トラックで芝居道具が大量に届く(きくは驚く)。帰宅した冨次が地方巡業の梅沢劇団と契約して来たと言う。夫婦は話し合うがきくは承知しないので、弥生に父母のどちらと行動するかと尋ねたら「おとっちゃん」というので、きくも仕方なしに地方巡業について行く。「太夫元」家族として劇団の切り盛り経営を一手にする。
埼玉の春日部近郊で長雨に会い、公演が出来ず役者の支払いも出来ない始末で、ある朝役者たちは全員夜逃げしてしまった。
母子3人は、不義理をした実家に帰ることにしたが、娘の弥生に旨いものを食べさせたので交通費が不足してしまった。それでも上総牛久を目指して汽車に乗った。「何とかなる」といううのが、父母の日常だから小湊鉄道の上総馬立までの乗車券だから下車して徒歩で8キロの田舎道を夜中に歩いた。弥生はおんぶされていた。白々明けに内田村島田の実家に着いたが、父は勘当されているから娘の弥生に声をかけさせた。
「おじいさん、おばぁさん、今帰ったよ」
家の中から「弥生か?」と声がして表戸を開けてくれた。祖母は、「かわいそうに何も食っていないだっぺ」と、すぐに食事の用意をしてくれた。
その後の父のことはわからないが、おそらく農業の手伝いをしながら再起を期していたようだ。牛久と内田村の中間地点に原田集落木ノ根坂という所があり、そこに茅葺の家を建てて父子3人は住み男子が誕生した。父は泣いて喜んだそうだ。
雪の夕暮れに産婆さんを5歳の姉の弥生が迎えに行ったことは前述した。
当時田舎では、花札賭博が流行っていて、父は仲間を集めてやっていて、警官に見つかって逮捕され、仲間の自白がもとで3か月千葉刑務所に収容された。乳飲み子を背負って、月1度の面会に1日がかりで行ったが、待合場所で背中の赤子が大泣きをして困っていたらどこかの奥さんが飴玉を口に入れてくれて泣き止んだ。
木ノ根坂の家を売り払って実家に帰っていたが、妹の出産時には、考えられないことをしでかしている。それは稲刈り自分だった。母に陣痛が来たので産婆を呼びに行くことになったが、出産は昼過ぎと言うことで稲刈りに行った。だが、とうとう産婆は来ないし、父は行方不明になってしまった。近所の人が探しに行ったら田には稲刈り鎌だけが置いてあった。しかし妹は無事に生まれた。だが、父からは連絡が数か月もなかった。風の便りに池和田の紙芝居屋の友人と、村芝居一座と共に村々を廻って漫才をやっていると言う話で、母は探しに行って居場所を突き止めて無理に引き戻して来た。往生したのだろう、当分は百姓をやっていた。それで、わが家は「まんぜぇ(漫才)」と呼ばれるようになったが、本当の屋号は「仁左衛門(にぜむ)」、通称は集落の路地のどん詰まりに屋敷があったので「うしろ」だった。
戦時中は、習志野の日立精機工場(飛行機のエンジン製造)に勤めた。単身赴任であったから家にはほとんど帰って来なかった。姉は高女に通学、勇太は国民学校の小学生、妹は幼児。貧しい生活であったが、母は農業をやらないので国防婦人会の役員などをしていた。集落や村の女性リーダーの一人だったが、どういうように収入を得ていたかは不明、おそらく父が給与を毎月持って来たのだろう。
敗戦後は父も軍需産業の工場を失職したから貧しかったが、姉が東京の会社に就職したから一息ついたようだが、父は競輪に手を出して父母に内緒でかなり借金をした。
ある時、母が帰宅の途中で町の材木屋の引く牛車に出会った。知人だから「随分いい材木だねぇ。どこから切って来たの?」と尋ねたら「おっかさんは知らないの?あんたの山からだよ」と言われて「またか」と驚いた。無断で土地などを売るのは、よくあったのだが、それは、いつも借金の担保であった。
新聞の求人広告を見て東京の本社に出かけた父は、就職の内定をもらって、前に間借りしていた習志野の実籾の部屋に入って勤め始めた。昭和25年で「殖産住宅建築」と言う月賦販売の住宅建築の会社であった。姉も近くに住み東京へ勤めていたから好都合であった。
勇太は、勉強もせず、バスケット部で頑張っていたのは家を継いで農業をやるのがよいと言う思いからであった。気弱だから進学などは頭の片隅にもなかったが、父が珍しく帰宅して高校の面接に行って進学先を決めて来た。「先生になる大学へ進学しろよ。担任の先生もお前の実力で合格すると言っている。これからは百姓は容易ではないからよ」と言うではないか。
「まぁ、それでは受けてみるか」ぐらいの気持ちで翌年、国立千葉大学教育学部(父が昔希望していた旧千葉師範学校)4年制を受験したら合格してしまった。あまり進学には気が進まなかったから受験の前日までバスケットを練習していたが、同級生の受験組は2学期からはクラブ活動には参加していなかった。(続く)
晩年の父(安藤富次―明治34、1901年生)
師範学校志望したが、百姓の長男は農家を継げ(進学を断念)言われて家出して、浅草の有名な活弁士楽天の家に住み込む。だが、3か月でやめてしまう。「家の掃除洗濯とカバン持ちに嫌気がさした」。帰郷したが放蕩無頼の青年生活(親族会議で勘当になり弟の三郎に家を継がせることになったが、土壇場で祖父勇吉があわれになって勘当は取りやめになる。弟は牛久の町でタクシーの運転手になる)
牛久の町で自転車店を開業(オートバイを乗り回す)。母の「きく」(木更津郊外の金田村出身)と結婚、長女弥生誕生、きくは小料理屋を開く。
ある日突然、トラックで芝居道具が大量に届く(きくは驚く)。帰宅した冨次が地方巡業の梅沢劇団と契約して来たと言う。夫婦は話し合うがきくは承知しないので、弥生に父母のどちらと行動するかと尋ねたら「おとっちゃん」というので、きくも仕方なしに地方巡業について行く。「太夫元」家族として劇団の切り盛り経営を一手にする。
埼玉の春日部近郊で長雨に会い、公演が出来ず役者の支払いも出来ない始末で、ある朝役者たちは全員夜逃げしてしまった。
母子3人は、不義理をした実家に帰ることにしたが、娘の弥生に旨いものを食べさせたので交通費が不足してしまった。それでも上総牛久を目指して汽車に乗った。「何とかなる」といううのが、父母の日常だから小湊鉄道の上総馬立までの乗車券だから下車して徒歩で8キロの田舎道を夜中に歩いた。弥生はおんぶされていた。白々明けに内田村島田の実家に着いたが、父は勘当されているから娘の弥生に声をかけさせた。
「おじいさん、おばぁさん、今帰ったよ」
家の中から「弥生か?」と声がして表戸を開けてくれた。祖母は、「かわいそうに何も食っていないだっぺ」と、すぐに食事の用意をしてくれた。
その後の父のことはわからないが、おそらく農業の手伝いをしながら再起を期していたようだ。牛久と内田村の中間地点に原田集落木ノ根坂という所があり、そこに茅葺の家を建てて父子3人は住み男子が誕生した。父は泣いて喜んだそうだ。
雪の夕暮れに産婆さんを5歳の姉の弥生が迎えに行ったことは前述した。
当時田舎では、花札賭博が流行っていて、父は仲間を集めてやっていて、警官に見つかって逮捕され、仲間の自白がもとで3か月千葉刑務所に収容された。乳飲み子を背負って、月1度の面会に1日がかりで行ったが、待合場所で背中の赤子が大泣きをして困っていたらどこかの奥さんが飴玉を口に入れてくれて泣き止んだ。
木ノ根坂の家を売り払って実家に帰っていたが、妹の出産時には、考えられないことをしでかしている。それは稲刈り自分だった。母に陣痛が来たので産婆を呼びに行くことになったが、出産は昼過ぎと言うことで稲刈りに行った。だが、とうとう産婆は来ないし、父は行方不明になってしまった。近所の人が探しに行ったら田には稲刈り鎌だけが置いてあった。しかし妹は無事に生まれた。だが、父からは連絡が数か月もなかった。風の便りに池和田の紙芝居屋の友人と、村芝居一座と共に村々を廻って漫才をやっていると言う話で、母は探しに行って居場所を突き止めて無理に引き戻して来た。往生したのだろう、当分は百姓をやっていた。それで、わが家は「まんぜぇ(漫才)」と呼ばれるようになったが、本当の屋号は「仁左衛門(にぜむ)」、通称は集落の路地のどん詰まりに屋敷があったので「うしろ」だった。
戦時中は、習志野の日立精機工場(飛行機のエンジン製造)に勤めた。単身赴任であったから家にはほとんど帰って来なかった。姉は高女に通学、勇太は国民学校の小学生、妹は幼児。貧しい生活であったが、母は農業をやらないので国防婦人会の役員などをしていた。集落や村の女性リーダーの一人だったが、どういうように収入を得ていたかは不明、おそらく父が給与を毎月持って来たのだろう。
敗戦後は父も軍需産業の工場を失職したから貧しかったが、姉が東京の会社に就職したから一息ついたようだが、父は競輪に手を出して父母に内緒でかなり借金をした。
ある時、母が帰宅の途中で町の材木屋の引く牛車に出会った。知人だから「随分いい材木だねぇ。どこから切って来たの?」と尋ねたら「おっかさんは知らないの?あんたの山からだよ」と言われて「またか」と驚いた。無断で土地などを売るのは、よくあったのだが、それは、いつも借金の担保であった。
新聞の求人広告を見て東京の本社に出かけた父は、就職の内定をもらって、前に間借りしていた習志野の実籾の部屋に入って勤め始めた。昭和25年で「殖産住宅建築」と言う月賦販売の住宅建築の会社であった。姉も近くに住み東京へ勤めていたから好都合であった。
勇太は、勉強もせず、バスケット部で頑張っていたのは家を継いで農業をやるのがよいと言う思いからであった。気弱だから進学などは頭の片隅にもなかったが、父が珍しく帰宅して高校の面接に行って進学先を決めて来た。「先生になる大学へ進学しろよ。担任の先生もお前の実力で合格すると言っている。これからは百姓は容易ではないからよ」と言うではないか。
「まぁ、それでは受けてみるか」ぐらいの気持ちで翌年、国立千葉大学教育学部(父が昔希望していた旧千葉師範学校)4年制を受験したら合格してしまった。あまり進学には気が進まなかったから受験の前日までバスケットを練習していたが、同級生の受験組は2学期からはクラブ活動には参加していなかった。(続く)
