物書きひとすじ!時には寄り道、迷ったり、直進したりして、人生は面倒で悲しく楽しくて。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ海を眺めて哲学者にはなれないのですが、いつも物を考えていますよ。

父の切れ切れの思い出

2019-08-29 14:38:16 | 自伝風小説
父の横顔、それは切れ切れの思い出

 晩年の父(安藤富次―明治34、1901年生)
師範学校志望したが、百姓の長男は農家を継げ(進学を断念)言われて家出して、浅草の有名な活弁士楽天の家に住み込む。だが、3か月でやめてしまう。「家の掃除洗濯とカバン持ちに嫌気がさした」。帰郷したが放蕩無頼の青年生活(親族会議で勘当になり弟の三郎に家を継がせることになったが、土壇場で祖父勇吉があわれになって勘当は取りやめになる。弟は牛久の町でタクシーの運転手になる)
牛久の町で自転車店を開業(オートバイを乗り回す)。母の「きく」(木更津郊外の金田村出身)と結婚、長女弥生誕生、きくは小料理屋を開く。
ある日突然、トラックで芝居道具が大量に届く(きくは驚く)。帰宅した冨次が地方巡業の梅沢劇団と契約して来たと言う。夫婦は話し合うがきくは承知しないので、弥生に父母のどちらと行動するかと尋ねたら「おとっちゃん」というので、きくも仕方なしに地方巡業について行く。「太夫元」家族として劇団の切り盛り経営を一手にする。
埼玉の春日部近郊で長雨に会い、公演が出来ず役者の支払いも出来ない始末で、ある朝役者たちは全員夜逃げしてしまった。
母子3人は、不義理をした実家に帰ることにしたが、娘の弥生に旨いものを食べさせたので交通費が不足してしまった。それでも上総牛久を目指して汽車に乗った。「何とかなる」といううのが、父母の日常だから小湊鉄道の上総馬立までの乗車券だから下車して徒歩で8キロの田舎道を夜中に歩いた。弥生はおんぶされていた。白々明けに内田村島田の実家に着いたが、父は勘当されているから娘の弥生に声をかけさせた。
「おじいさん、おばぁさん、今帰ったよ」
家の中から「弥生か?」と声がして表戸を開けてくれた。祖母は、「かわいそうに何も食っていないだっぺ」と、すぐに食事の用意をしてくれた。
 その後の父のことはわからないが、おそらく農業の手伝いをしながら再起を期していたようだ。牛久と内田村の中間地点に原田集落木ノ根坂という所があり、そこに茅葺の家を建てて父子3人は住み男子が誕生した。父は泣いて喜んだそうだ。
 雪の夕暮れに産婆さんを5歳の姉の弥生が迎えに行ったことは前述した。
 当時田舎では、花札賭博が流行っていて、父は仲間を集めてやっていて、警官に見つかって逮捕され、仲間の自白がもとで3か月千葉刑務所に収容された。乳飲み子を背負って、月1度の面会に1日がかりで行ったが、待合場所で背中の赤子が大泣きをして困っていたらどこかの奥さんが飴玉を口に入れてくれて泣き止んだ。
 木ノ根坂の家を売り払って実家に帰っていたが、妹の出産時には、考えられないことをしでかしている。それは稲刈り自分だった。母に陣痛が来たので産婆を呼びに行くことになったが、出産は昼過ぎと言うことで稲刈りに行った。だが、とうとう産婆は来ないし、父は行方不明になってしまった。近所の人が探しに行ったら田には稲刈り鎌だけが置いてあった。しかし妹は無事に生まれた。だが、父からは連絡が数か月もなかった。風の便りに池和田の紙芝居屋の友人と、村芝居一座と共に村々を廻って漫才をやっていると言う話で、母は探しに行って居場所を突き止めて無理に引き戻して来た。往生したのだろう、当分は百姓をやっていた。それで、わが家は「まんぜぇ(漫才)」と呼ばれるようになったが、本当の屋号は「仁左衛門(にぜむ)」、通称は集落の路地のどん詰まりに屋敷があったので「うしろ」だった。
 戦時中は、習志野の日立精機工場(飛行機のエンジン製造)に勤めた。単身赴任であったから家にはほとんど帰って来なかった。姉は高女に通学、勇太は国民学校の小学生、妹は幼児。貧しい生活であったが、母は農業をやらないので国防婦人会の役員などをしていた。集落や村の女性リーダーの一人だったが、どういうように収入を得ていたかは不明、おそらく父が給与を毎月持って来たのだろう。
 敗戦後は父も軍需産業の工場を失職したから貧しかったが、姉が東京の会社に就職したから一息ついたようだが、父は競輪に手を出して父母に内緒でかなり借金をした。
 ある時、母が帰宅の途中で町の材木屋の引く牛車に出会った。知人だから「随分いい材木だねぇ。どこから切って来たの?」と尋ねたら「おっかさんは知らないの?あんたの山からだよ」と言われて「またか」と驚いた。無断で土地などを売るのは、よくあったのだが、それは、いつも借金の担保であった。
 新聞の求人広告を見て東京の本社に出かけた父は、就職の内定をもらって、前に間借りしていた習志野の実籾の部屋に入って勤め始めた。昭和25年で「殖産住宅建築」と言う月賦販売の住宅建築の会社であった。姉も近くに住み東京へ勤めていたから好都合であった。
 勇太は、勉強もせず、バスケット部で頑張っていたのは家を継いで農業をやるのがよいと言う思いからであった。気弱だから進学などは頭の片隅にもなかったが、父が珍しく帰宅して高校の面接に行って進学先を決めて来た。「先生になる大学へ進学しろよ。担任の先生もお前の実力で合格すると言っている。これからは百姓は容易ではないからよ」と言うではないか。
「まぁ、それでは受けてみるか」ぐらいの気持ちで翌年、国立千葉大学教育学部(父が昔希望していた旧千葉師範学校)4年制を受験したら合格してしまった。あまり進学には気が進まなかったから受験の前日までバスケットを練習していたが、同級生の受験組は2学期からはクラブ活動には参加していなかった。(続く)

孫たちのハガキ

2019-08-21 09:56:57 | 日記

 孫たちが、父親の赴任先の岐阜へ行って来たのでハガキを送って来ました。娘の方は中2になると文字もうまくなりますので感心しました。小5の男の方は「ぼぼ」の絵でしょうか。赤で描いてありました。可愛い絵です。

姉と父の思い出断片

2019-08-15 15:29:46 | 自伝風小説

 勇太朗の思い出の一つに姉が妹をおんぶし、5歳の私がついて、スカンポ採りに野良へ出かけた時のことがある。スカンポは、一晩塩漬けにして食べた山菜だが、水田の土手にたくさんあった。それで姉は妹をおんぶしたまま前かがみになったのでずるずると泥深い水田に落ちてしまった。あわてた私は助けようとして手をさし出したて一緒に落ちてしまった。3人で困り果てて泣いているのを遠くで働いていたマスエさんが見つけて助けてくれた。マスエさんは、母が仲人をして近所の農家にお世話した女性で、姉とは幼馴染であった。
 このシーンは、私の作品『命燃ゆ』にも伊豆の若者健太として執筆したのだが、長すぎるのでカットしたように思う。
 姉は、私と異なり、とても勉強好きで、病弱な母が「学校を休め」と言っても、自分で弁当を詰めて、6キロの山道を県立鶴舞高女へ通った。
 敗戦が間近な頃には、上総牛久駅の近くに宿を借りさせられて五井の風船爆弾づくりに学徒動員させられ、卒業後は義理の叔父(東大の英文科教師から都庁のGHQ担当)の勤務する都庁へ勤めることになったが、報酬が安すぎて、生活費の不足分を貧しい我が家では負担が出来ない。そこで3,4日で退職し、日本橋で幼児の服を商っている叔父の世話で日本ノッズルと言う漁船のエンジン部品を製作する会社へ今の習志野市の父の知人の家に間借りして通勤した。
 姉は、とても家庭思いで出張先で土産に魚をいただくと、終電で我が家まで持ち帰り、母の喜ぶ顔を見て、翌朝は5時起きして小湊線の上総牛久駅から東京まで行った。おそらく3,4時間かかったであろう。
私たち一家は牛久駅から4キロの山村で不便な生活していた。ただ篤農家の祖父母が隠居所に住んでいたので何とか私も母と妹と3人で高校卒業までここにいた。
 父は一念発起して子どもたちの学費を得るために東京の住宅月賦販売の会社に勤めて月に1、2度帰宅するようになっていた。
 私が中学生の時に姉は、叔母が後妻に入っていたわが家よりも山奥の近藤家に嫁入りした。建築技師の義兄はソヴィエト抑留から帰国して村役場に勤めていた。誠実で、ユーモラスなところもある人物であった。私は高校入試の数学と英語を少し教えてもらった。
 姉は、農業が出来ないので嫁ぎ先の農協の組合長の義父(海軍を退役していた)とは折合が悪く、義兄は悩んだ末に県庁の建築課に勤めることになり、幼児の長男と3人で千葉市内に転居した。まぁ、義父に内緒で飛び出したのであろうが、これが後にいろいろと幸いした。
 交通の不便な田舎では、子弟の教育も思うようには出来なかったはずだが、長男も長女も大学や大学院を出たし、私も千葉大学に入学して4年間下宿させていただいた。
 義父も晩年は、田舎での一人生活を切り上げて同居し、近くに住む私の二人の子どもの面倒を孫のように見て下さった。
 高校を卒業したら祖父母の農業を継ごうと思っていた私は、父と担任教師の意向で大学の教育学部に進学した。それは、父が師範学校を断念させられた悔しい思い出を息子に晴らさせようと言う思いからであろう。勉強嫌いの勇太は仕方なしに受験したら合格してしまった。
 父は姉を「やよぼう、やよぼう」と言って可愛がった。姉も父になついていて「おとっちゃん」と呼んでいた。まぁ、母と違って厳しく叱りつけたりはしなかったからだが、無責任と言えばその通りであった。
だが、この父は、牛久の町で自転車店を開業し、母には小料理屋をやらせて、景気が良かったが、東京へ出かけて数日たったらトラック一杯の荷物が届けられた。帰宅した父が突然「地方を巡業する芝居をやるので、その荷だ」と言う。
 母は驚いて反対したが、姉の意見を聞くと「やよぼうは、おとっちゃんに付いて行く」と言うので、母も仕方なく一緒に行くことになった。まだ姉は4歳の頃のことだから私は生まれていなかった。
 この田舎芝居は「梅沢劇団」と言い、後に団長夫婦の末子が「下町の玉三郎」として知られたが、その頃は名もない地方まわりの劇団であった。
 姉は、ある時、芝居の子役になって舞台に立ったが、居眠りをしてしまった。その寝ぼけた仕草が受けて、「かわいい!」と観客から沢山の投げ銭をもらった。
 しかし、劇団の運営は素人には難しく、ある時、劇場のない土地の広場で公演しようとしたが、雨天続きで資金が底をついてしまい、母は質屋通いをした。その挙句、朝起きると、役者は一人残らず夜逃げしてしまっていた。そこは、埼玉県の春日部近郊だと母は言っていたが、詳しくは分からない。
 それで、勘当されている父の市原市島田の実家に帰ることになったが、小湊線の馬立駅までしか旅費がなく、そこからは8キロの夜道を親子3人でとぼとぼと歩いて帰った。だが、父や母が祖父母に声をかけても入り口の戸を開けてくれそうもない。
 父に「やよぼう。お爺さん、おばぁさん、今帰ったよ」と戸をたたかせた。
中から「やよぼうか?」と言う声がして、祖母が戸をあけてくれて、「あれあれ、こんなに遅く、可愛そうによう」と、ごはんを温めて食べさせてくれた。
 姉は、3,4歳のころからとても気が利いていて、しっかりしていたそうだ。

勇太朗の経歴は?

2019-08-09 09:31:31 | 自伝風小説
1936年1月25日 千葉県市原市旧内田村島田の山村に生まれる。
県立市原一高・国立千葉大学教育学部国語科(荒井栄教授に師事)卒業、教職に就く。主に千葉市内の小中学校に勤務、全学年の学級担任や管理職(校長3校)を経験、実践に基づく文学・詩歌句・読書・民話教育の理論構築と、その普及活動に取り組む。
その一環として、国語教科書のあるべき姿を追究し、その編集(学校図書版中学国語10年間)などに携わる。また、千葉市教育委員会に勤務し、社会教育(幕張・高浜公民館長)・教職員指導(指導課主幹)・教頭(1校)・学校長(3校)を歴任。定年後は、短大(ポリテックカレッジ千葉)・大学(秀明大学)で6年間、コミュニケーション論と実践教育学を講じる。「NPO法人ふるさと文化研究会」理事長として生涯学習講座「千葉ふるさと文化大学」を17年間主宰(受講生約4000人)。
千葉文学教育の会事務局を担当・日教組自主編成講座・全国教研助言者(文学・国語教育)各県教研講師などを歴任。その間、国分一太郎(教育評論)・寒川道夫(教育実践)・奥田靖男(言語学)・無着成恭(綴り方教育)・渋谷清視・今西祐行・松谷みよ子・鳥越信・古田足日・斉藤隆介・鈴木喜代春・神沢利子・安藤美紀夫・砂田弘・宮川ひろ(児童文学)。遠山あき(農民文学)西尾光一・岩沢文夫(国文学)・明石要一(社会教育学)・宇佐美寛(教育哲学)・岡村道雄(縄文学)、深尾須磨子・巽聖歌・小林純一・香山美子・久米井束・吉野弘・天澤退二郎(詩人)、金子兜太・西東三鬼・森澄雄(俳句)、深沢幸雄(銅版画家)、竹久みなみ(染色家)、さとう有作(漫画家)、黒沼ユリ子(ヴァイオリニスト)、湯浅みつ子・鶴屋奏英(民謡歌手)氏などとの交流あり。
趣味 歴史・民俗・民話研究・小説詩歌句とエッセー・評論の執筆・海外旅行(国際交流活動)・日本酒探訪。
表彰 千葉市・千葉県教育功労 ・感謝状 法務大臣(保護司10年間)・NHK千葉放送局長・千葉キワニスクラブ 他
現在 学校法人山王学園理事・福祉法人豊樹園理事・中国天津市少年児童図書館名誉館長 他
   ※千葉市在住59年間を経て、現在は千葉県夷隅郡御宿町新町816-5-616に転居。地域に根差す小説を執筆中。また、「御宿町の歴史と文学」(観光パンフレット)を作成,観光ボランティア講座開設。
※ブログ「おぼろ男・黒マリア流転・鋼の星」で作品・エッセーなどを発表。
ホームページfurusatobunka.jp/Mail=furusatobunka@ipone.ne.jp
また、千葉市の縄文遺跡「加曾利貝塚」の国特別史跡指定と世界文化遺産登録の運動に熊谷千葉市長と提携して関わる。・千葉大学教育学部同窓会理事(26歳~78歳)
過去 NHK千葉レギュラー ・読売文化センター千葉講師・千葉大学教育学部同窓会理事(26歳~75歳)・房総(千葉)学検定(5年間約1500人)と縄文文化検定(5年間約2000人)主宰※初期の目標を達成して終了。他
☆主な編著書☆
文学・読書の授業(日本書籍)・文学教育入門(鳩の森書房)・文学教育(新評論)・感動体験を育む詩の授業(明治図書)・国語教科書の詩小・中学校編2冊(有信堂)・はばたけ子どもたち(学校図書)・先生少しは反省せよ(三一書房)・国語教科書批判(三一書房)・民話への招待(有信堂)・民話のこころ(日本標準)・ふるさと民話全七冊(鳩の森文庫)・房総むかしむかし絵本全八冊(ほるぷ出版)・千葉のむかし話・伝説・歴史全四冊(日本標準)・写真集千葉県下の昭和史-メッセの町は海だったほか全十巻(千秋社)・房総のふるさと言葉(国書刊行会)・写真集海女の群像・海女の習俗(彩流社 岩瀬禎之写真)・房総ふるさと歳時記(ふるさと文化研究会)・房総(千葉)学検定2冊(国書刊行会)・ドン・ロドリゴの日本見聞録(たにぐち書店)・縄文文化の魅力(東銀座出版社)・句集鋼の星・詞華論集火喰い鳥(2巻、国書刊行会)・千葉の地酒とうまい肴(彩流社)・大河歴史小説 命燃ゆー養珠院お万の方と家康公(幻冬舎ルネッサンス)・少女は貝の笛を吹く・茉莉のルーツ幻想(悠光堂)・黒マリア流転―千々石ミゲル異聞(幻冬舎文庫)・房総酒造り唄作詞(コロムビアレコードCD湯浅みつ子歌)・「上総酒屋唄」(2018日本民謡作詞賞受賞、鶴屋奏英唄)他
※こう暑くては小説も書く意欲が減退しますので、インタービューの補足です。

近況インタービュー

2019-08-07 19:09:49 | 日記
最後まで徹底的に取り組む
文学、歴史の本、小説を書き続ける
興味のあることを楽しむ元小学校長
千葉市立小、中学校の教師を務めた安藤操さん(83)は、
エネルギッシュな活動を続けている。
国語教育や文学の専門書の他、民話、昔話、ふるさとの言葉などの
郷土関係や小説まで幅広い分野の本を書き、出版している。
編著も含めると200冊を超えるという。
小中学校全学年を担当し校長も3校で務め、
「興味のあることを楽しむ。とことん最後までやり抜くのが信条」。
その原動力は「集中力」だという。
何でも挑戦! アイデアマン
千葉県市原市の山村生まれで、子供の頃から人一倍、好奇心が強かった。
あるテーマに関心がわくと、関係書物を集め、徹夜してでも完読する
定年後、NPO法人「ふるさと文化研究会」を立ち上げて、歴史、
文化などを講師が講演する「千葉ふるさと文化大学」を主宰。
アイデアマンとしても知られ、千葉について知ってもらおうと
検定試験「房総(千葉)学検定」や、県内に縄文時代の貝塚が多いことから
「縄文検定」も実施し、人気を呼んだ。
近年、御宿町に転居し、力を入れているのが小説執筆。
最近では、地元の寺に伝わる黒いマリア像をヒントに、
「黒マリア流転――千々石ミゲル異聞」を刊行。
黒いマリア像を調べるために、専門書を取り寄せると、国内では極めて珍しいものと分かり、「そこから小説の構想が始まった」。
16世紀末にキリシタン大名の名代としてローマに派遣された少年の1人で、その後、消息不明になった千々石ミゲルを登場させて、迫害された信者の苦しみを描くことにした。
小説は構想が固まると、一気に書く。書くペースは速いという。
健康にも留意し、深酒をしなくなった」と笑顔を見せた。
ペンネームは安藤三佐夫。地域新聞2019,8(高木和夫