日蓮宗の荒行道場は市川市中山の法華経寺が知られているが、遠壽院も少しこじんまりと荒行を行っている。
この寺の戸田伝師をご案内して岩瀬酒造に久しぶりに行った。台風で傷んだかやぶき屋根を修復した折に梁から文書が出て来たから拝見を申しでていたのでさっそく拝見した。戸田氏が古文書の専門家だから好都合だ。社長がビニル袋に入っているものを持って来たが、取り出すと粉々にばらけてしまう。しかも煤けていて文字もはっきりしない。これを戸田氏が丁寧に開いて読んでくださった。内容は法華経で安全・防火などを祈る文書だった。書いた年代は、明和2年とあるから1765年らしい。
この時に新築したのか、屋根替えの時に収めたのかは不明だが、この家はかなり古いことは確かで、入り口の土間の天井には太い木材が使われていて、言い伝えでは、スペイン船サンフランシスコ号が岩和田沖で遭難した時に当時の救助のリーダー岩瀬家に送られたと言う。
御宿という所は、東西北が山に囲まれていて、南は海だから今もこの町にたどり着くには、トンネルをくぐるか、山を越えるしかない。だから大きい材木を運んで来ることは、江戸時代には不可能であったろう。
岩和田沖から船の大きい材木を久保の岩瀬家に運ぶのは無理だから前から私は頭を悩ませていたのだが、数年前にひらめいたのは、そうだ水運があるのだ。[清水川」という川が流れていて岩瀬家の脇から御宿駅の前を通って海へ注ぐ。この川を人力で引いて行けば材木を運べるのである。
しかも、岩瀬家には「太閤検地帳」が1部残されているから秀吉の時代からすでに名主だったのだろう。3代前の当主は初代村長・県会議員を務め、自由民権運動で逮捕された政治家で国会議員も務めたことがある名家である。今も老人たちは「北の家」と呼ぶが、それは御宿町には、北に酒造の家、南には醤油づくりの家があったからだそうだ。「南の家「」はすでに没落したようだ。



この寺の戸田伝師をご案内して岩瀬酒造に久しぶりに行った。台風で傷んだかやぶき屋根を修復した折に梁から文書が出て来たから拝見を申しでていたのでさっそく拝見した。戸田氏が古文書の専門家だから好都合だ。社長がビニル袋に入っているものを持って来たが、取り出すと粉々にばらけてしまう。しかも煤けていて文字もはっきりしない。これを戸田氏が丁寧に開いて読んでくださった。内容は法華経で安全・防火などを祈る文書だった。書いた年代は、明和2年とあるから1765年らしい。
この時に新築したのか、屋根替えの時に収めたのかは不明だが、この家はかなり古いことは確かで、入り口の土間の天井には太い木材が使われていて、言い伝えでは、スペイン船サンフランシスコ号が岩和田沖で遭難した時に当時の救助のリーダー岩瀬家に送られたと言う。
御宿という所は、東西北が山に囲まれていて、南は海だから今もこの町にたどり着くには、トンネルをくぐるか、山を越えるしかない。だから大きい材木を運んで来ることは、江戸時代には不可能であったろう。
岩和田沖から船の大きい材木を久保の岩瀬家に運ぶのは無理だから前から私は頭を悩ませていたのだが、数年前にひらめいたのは、そうだ水運があるのだ。[清水川」という川が流れていて岩瀬家の脇から御宿駅の前を通って海へ注ぐ。この川を人力で引いて行けば材木を運べるのである。
しかも、岩瀬家には「太閤検地帳」が1部残されているから秀吉の時代からすでに名主だったのだろう。3代前の当主は初代村長・県会議員を務め、自由民権運動で逮捕された政治家で国会議員も務めたことがある名家である。今も老人たちは「北の家」と呼ぶが、それは御宿町には、北に酒造の家、南には醤油づくりの家があったからだそうだ。「南の家「」はすでに没落したようだ。

