雑誌や本などで、作曲家が椅子に座って机の上の大きなオーケストラ用の五線紙に書き込んでいる「作曲中の写真」をよく見るが、あれは実はごく稀な姿だ。作曲中のリアルな姿だとは到底思えない。新聞紙ほどの大きな五線紙に、一番上から一番下まで書き込むのだ。上半分を書く時などは、どうしたって中腰になる。
一番上のフルート・パートなど、楽器の中でも最も細かく動き得るから、体をくの字にし、ひじを突き、顔を近づけ、五線紙の中にダイヴするような格好になる。上から順に書いていき、真ん中より下の金管パートになると、やっと椅子に掛けることが出来る。にもかかわらず、椅子にずっと座っているとお尻に良くないので座らずに、最近は両足をガバッと開いて体の位置を下げ、立ったまま書くことが多い。
ところで僕は作曲する時、音楽的なクライマックスと音響のクライマックスを使い分けている。
音楽的な要素(メロディーや音型・響き・リズムなど)がどんどん緊迫するのが前者。音や音群、音響そのものの音量や音の数がどんどん膨らんでいくのが後者。
知的、精神的に満たされるのは前者だが、それだけでは本当の満足には至らず、生理的にも満たされることを欲し、後者を必要とする―僕だけが?
つまり「音楽」と「音響」を、「主題」と「推移」のように扱いながら―逆転する場合もある:既にバッハがしている―その楽器(編成)や、コンクールなどの条件下で可能な、あらゆる音楽的素材、音響現象の中から自分に必要な物を選び取り、コンポーズするのだ。その配分や提示の仕方に、聴き手との間で心理的な駆け引きが生じ、巧拙・性格・人格が出る。
曲一番のクライマックスともなると、五線紙の上から下まで音符で埋め尽くされる―カタストロフィ。
そこまでこつこつと築き上げたものを、破壊するほどのパワー。巨星の死による爆発が、新しい星の誕生をもたらすような。
しかしその作業たるや、荒波の波頭のひとつひとつを手で書いていくような…ドミノ倒しのドミノをたった一人で並べていくような…アニメーションの一コマ一コマを一人で描いていくような…
「作曲」という名の単純作業!
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