一週間済南へ行ってきました。故郷山口県と山東省の友好三十周年記念行事取材というか、山東電視台との打ち合わせというか。忙しかったけど、よく呑み、よく唄い?第2?第3か?(5年も学んだ?蘇州がある)のふるさとを満喫して、、、、、、きました。先ずは「済南記」孔子さまから。
孔子さま
山口県山東省友好提携30周年の記念活動を見るべく、30年ぶりに済南へ来た。蘇州北駅9:34発北京行き高鉄に乗車3時間20分、車内で上海から済南へ行く老夫婦と娘二人の4人と同席した。老人は86歳、済南の生まれ、従軍して、老後上海の娘のところで世話になっている。1926年生まれだから1928年の済南事件の時は二歳。終戦が45年だからまだ19歳。老人が戦ったのは、国民党との戦い。山東省には王震、白如冰など有名な革命軍の将軍がいた。ためしに聞いてみたら二人とも知っていた。実は、ぼくも王震には北京の中日友好協会で、白如冰には山東省代表団団長とした来日の際、会っている。白如冰には大谷山荘の温泉で肩を貸して一緒に風呂にも入った。実は白如冰は開放戦争で右足に銃弾を受け、風呂はすべるのであぶない。上海の老人は革命烈士の墓を詣で、かっての戦友を慰霊するのだという。抗日戦争の方でなくてよかったと、ホッと胸をなでおろした。
娘二人が普通料金で列車の切符を手配したのを知ると、老人は退役軍人の赤い手帳を出して、これを見せれば半額なのにと、言っていた。まだかくしゃくとしている。
12:53済南西駅着。バスで市内へ向かう。高鉄は去年開通したばかりなので、済南西駅前はまだ開発中。157路バスに乗って市内へ。途中営市西街で117路バスに乗り換え。混んでいた。乗るとすぐ、若い人が席を譲ってくれる。見ていると、若い人はほかの老人にもみなそうしている。となりの中年の人に「ここではみなあんなにするの?」と聞いたら「孔子の里ですからねえ。孝順はあたりまえですよ」。「これはいい土地に来た」と言ったら、「楽しんでいってください」と名詞をくれた。中国古籍発掘管理委員会主任趙立兵とある。孔子の教えがすぐ出てくるはずだ。兵役に行ったんですか?と冗談を言うと。名前だけですと笑っていた。
30年前は自転車だらけだった街も今は車で渋滞。バスが市内に入ると高層ビルの群れ。国体をやった体育館、博物館など最近建ったビルは中国各省の施設のうち、規模最大。山東大漢といって、山東人はたけが大きいことを言うが、とにかく大きいことは好き、建物の規模も全国一が自慢。
バスを降りると山東師範大学直営のホテルにチェックイン。フロントの対応が感じがいい。サービス業だから当然と言えば当然だが、それを言うと、「孔子の里ですから」という答えが返ってきた。ここでもか。孔子は二千五百年経っても住む人の心に伝わっている。孔子廟は何度も立て替えられたし、形のあるものは、うつろっても、こころは確実に伝承される。形而上は形而下よりも強し。
翌日夕方、泉城公園に行った。この公園は周囲4kmもある。「中に日本庭園雅あるはずだが」と庭掃除の老人に尋ねると「案内しよう」と箒を置いて先にたって歩き始めた。20分も歩いたころ、前方に錦帯橋の模型がかかった池が見えた。これは、案内してもらわないとたどりつけない。孔子は親切を教えていたのかな?そう言うと老人は笑って、帰って行った。
翌翌日山東電子台交流室長に招待された。その席の話題。「日本ではサラリーマンが仕事帰りに仲間で呑む時の話題ナンバーワンは上司の悪口でしょう」。室長曰く「ここでは、本人が居ないところで陰口は言いませんよ。孔子の教えに、、、、、」まいったまいった!山東省にはでかい建物がたくさんあるが、いちばんでかいのは、やはり孔子さま。 z
済南市の街の中心は泉城広場。その西端の趵突泉路に面して石の本を開いた形の記念碑がある。高さ3m幅5m。見出しに1928年5月3日。済南事件として中国全土に知られる満州事変の導火線になった日本軍の山東出兵、市街戦。16名が死亡し、数百名が戦傷したと記されている。田中儀一内閣が出兵を決めたことから、山口県にもかかわりが深い。その山口県が八十余年経た今山東省と、山口市が済南市と友好提携しているのも事件と無縁ではない。事件の経緯を少し掘り下げてみよう。
1928年蒋介石軍が北上して、張作霖軍と衝突したとき、日本軍が居留民保護を名目に、青島、済南に出兵し、5月3日に蒋介石軍と衝突、市街戦となった。夜には停戦協定が成立したが、田中儀一内閣は、排日感情を抑えるため増派を決定。蒋介石軍の済南からの撤退、軍団長の処刑などを要求するも蒋介石の回答を不満として、5月8日総攻撃を再開。11日に済南を完全占領した。
記念碑の裏のクリークは澄んだ泉水をたたえ、柳がしだれている。街に残る八十数年前の事件の痕跡はこの記念碑のみであるが、市民は誰でも事件があったことを知っている。後代は歴史を知った上で、交流を続けなければならない。
4月17日、山口県山東省友好提携30周年記念祝賀会開催の前日、済南市泉城公園にある防長亭を下見に行った。友好10周年の記念として山口県が山東省へ贈ったもの。天井に国宝五重塔や錦帯橋などのパネル写真をはめ込んだあずまやと錦帯橋を模してステンレスで製作した長さ10メートルの五橋の橋がある。五橋の橋は池にかかっており、歩いて渡れる。おりしも夕刻、山東大学の学生たちが来ていたので、由来を知っているか聞いてみた。友好記念に贈られたらしいことは知っていたが、どこからかは知らなかった。錦帯橋の名前も知らない。看板も立っていないのだからしかたがない。それでも由来だけは解説しておこうと、聞きたいかというと、是非にという。そこで、おぼつかないながらも、次の話をした。
山口県は30年まえに山東省と友好提携した。君たちの生まれる10年前だ。そして、20年前、防長亭と錦帯橋を贈った。これらがそうだ。山口県は昔防長二州と言った。山東省が斉魯の二州だったのと同じ。そこから、防長亭の名。錦帯橋は国宝。五百年前、明の時代、防長の岩国錦川の橋が洪水のたびに流失した。そこで吉川という殿様が、漢人から、杭州西湖にかかる橋の図を手に入れ、これをもとに五橋の橋を作った。ここにあるのはステンレス製だが、現物は木造、幅二百メートルの川を五橋で越える。つまり杭州の西湖から来た橋が五百年後に済南に里帰りしたわけだ。この話は受けた。離れて聞いていた60歳がらみの庭番のおじさんも初めて聞いたと言った。しかし、さすが錦帯橋の名前は知っていた。八重桜が夕暮れの防長亭ののきを囲むように咲き誇っていた。
翌日夕方、TYSOBの山中氏ともう一度防長亭を見に行った。20年前、防長亭贈呈式のとき、TYSと山東電視台が共同衛星中継したので、その中継スタッフとして来た。中日の中継手法のちがいにとまどったと。当時の仲間に見せるのだと、しきりにビデオをまわしていた。
その翌日、山東電視台との会談に出てきた、今は対外交流センター主任の郭さんが当時の電視台のスタッフの一人だった。20年ぶりの再開を喜び合った。
山口県山東省友好提携30周年記念行事スケッチ
1982年8月12日山口県山東省友好協定締結。山東省から12名の代表団が来県。平井知事、蘇毅然省長の間で山口県庁に於いて友好協定が調印された。折りしも8月12日は、日中平和友好条約締結4周年の日、1982年は日中国交回復10周年にあたる。
光陰矢の如し、調印30周年を迎え今年4月、山東省済南市で一連の記念行事が開催された。山口県からは、友好の翼150名、友好の船150名、民間機50名合計350名が済南を訪問。メンバーは、二井関成知事はじめ角界の代表者、一般県民多数。30年前当時の立役者幾人かは物故されたが、つちかわれた友好のきずなは健在。県省下の6都市も相互に友好提携、経済、教育、植樹など民間交流分野でも交流の展開がみられた。下関青島間に定期フェリーが就航して、経済、観光交流を一層促進している。
これらの30年の流れは、山東省外事弁公室が百数十枚の写真パネル展示にまとめて、交流会場に展示していたが、その交流の厚みに圧倒された。おそらく日中県省間での交流がこれほど広範に展開された例は30年の歴史を含め、ほかに例をみないだろう。
4月18日夕刻には、山東ホテルの金色大庁に日中友好人士500名が参集して山東省政府の歓迎祝宴が催された。双方の省長、知事のあいさつ、山口から参加の琴、山東省の二胡の演奏、かわいい子供の「さくら」と山東省民謡「沂蒙山小调」独唱。乾杯。会場はおおいに盛り上がった。会場ロビーには先の交流歴史パネルが展示されており、なつかしそうにのぞきこむ姿や、自分の写真を見つけて指差している人々を見受けた。
翌19日は、二井知事を迎えて山東省博物館で萩焼―山口県陶芸展のテープカット。2年前にオープンしたこの博物館は、全国省内で最大の規模と展示内容を誇る。ロビーには昨晩の展示パネルが移設され30周年の歴史をアピールしていた。そばでは、両県省の映像が大画面でビデオ紹介され、入館者の関心を引き付けていた。萩焼展も多彩。茶室では萩から参加した和服姿の師匠の抹茶接待があり、山東省副省長が神妙に正座していたが、さすがに痛くなったとみえ、しきり膝をもぞもぞさせていた。
このほかにも、野田学園が姉妹提携したほか、山口県各界メンバーグループも市内各会場に別れて貿易商談会、観光商談会などを行った。かく言う我々も、山東ラジオテレビ局を訪ね、情報交換会を行った。県下のTV各局もこれらを取材した。
県省交流の最初の一歩は1979年5月9日、青岛港から中日友好の船「明華号」が下関港到着である。中国と日本の地方都市同士の友好都市提携を促進しようとする一大プロジェクトで、この船は下関を皮切りに一ヶ月にわたり日本各地の港に寄港し、6月10日長崎港から離日、青島港に帰港した。団長廖承志中日友好協会会長、孫平化秘書長をはじめ一行600名、中国各省の代表各20名も参加していた。山東省の代表は童辛外弁主任、通訳はまだ20数歳のおかっぱ髪の張偉齢女史。これが彼女の最初の日本訪問であり、その後30年有余の間30数回訪日代表団のメンバーとして来日され、東京の在日本中国大使館館員としても勤められた。特に山口県山東省の交流では、最も大きな足跡を残された一人であると言っても過言ではない。山口県と山東省傘下の各都市がその後陸続として友好提携していったのも彼女の裁量によるところが大きい。
さて、1979年に話をもどすと、中国からの船「明華号」が最初に下関に寄港したのには、廖承志氏の思惑があった。青島市と下関市友好提携の提案である。これを受けて、下関市と青島市は同年10月3日に友好都市協定に調印した。船がとりもった縁は、更に下関青島航路へと発展した。1980年10月1日、西日本汽船(現オリエントフェリー)の「ゆうとぴあ号」が630名の県民を乗せて青島港へ向かった。その後、この船は友好の船として往来、実績を積み重ね、現在は定期船として、週2回下関と青島間を往来している。「ゆうとぴあ号」は、コンテナーも積載する大型フェリーで、人の往来だけでなく貨物の往来も担い、経済交流にも大いに貢献している。
県市の事実上の交流が1979年に始まり、既に30余年が経過した今、日中両国は戦略的パートナーとして、是々非々の立場で交流する段階に至っているが、今日に至る原点は「日中両国国民の善隣友好の強化発展をさらに前進させるため、相互協力関係の樹立に共に貢献すること」であり、この原点を忘れては、時に立ちはだかる困難な問題を越えて行けない。 その意味では、県省交流を通じて培ってきた草の根の友好は、日本にとっても大きな財産である。双方に30年以上付き合ってきた人々がいる、人脈がある。県省友好提携30周年を指呼の間にのぞむこの頃になって、あらためて「温故知新」を想う。
あの頃の熱気を思うとき、今も思い出す30年前の歌がある。最後にそれを記す。
青岛下关友好城 风景优美似锦绣 虽然相隔几千里 今天相逢手挽手
山口山东友好省县 唱之歌而传友情 中日两国肩并肩 友谊花开万年红
(33年前、ぼくたちがつくった唄だよ。これが歌えるのは日中あわせて五本の指)
2012年4月20日
済南にて さわ
済南記、かたい話ばかり読んでいただいて、恐縮。ここで、ちょっと肩もみ。
4月18日、30周年大宴会のあと、もと知事の次男坊、Hと山東省もと外弁Jと数人つるんで、街へくりだした。行く先は、言わずと知れたKTV。ボックスルームへ入ると十数名の小姐が整列。好きな娘を各自指名。ぼくは、一番背が高い小姐を指名。だいたい外省から出稼ぎに来ている。地元で水商売は、親とか親戚とかの手前、はばかられるのだろう。たまたま、ぼくについたのは湖南省張家界出身、去年まで地元専門学校で会計学を専攻。わけは聞かなかったが、千キロ離れた済南にやってきた。ぼくにとって、張家界は特別な村。謝晋監督、映画“芙蓉鎮”は忘れられない名作。その撮影現場は今も、張家界に保存されている。その話でもり上がった。Hさんはじめ、陽気なグループだったが、いかんせん、小姐とは言葉が通じない。もりがるにはカラオケしかない。しかし、ここは済南の場末。日本語は「北国の春」一曲。Mが「我が愛する天安門」を中国語で歌った。大拍手。ぼくも“何日君再来”“游击队歌”とたてつづけ。革命歌だから、若い小姐は初めて聞いた。でも一曲終わるごとに乾杯。午前1時、Hがマイタンしてお開き。張家界の小姐がまた来てね!と言ったが、千里はなれた蘇州へ帰る身、ウンウンと言いつつも今生の別れ。
“上帝把夏天的艺术赐给瑞士,把春天的赐给西湖,秋和冬的全赐给了济南”天は秋と冬のすべてを済南に賜っただと。老舎は1930年31歳でロンドン留学から帰国し、斉魯大学で4年半教鞭をとった。たしかに当時の著作に《济南的春天》《济南的冬天》《济南的秋天》《大明湖》などなど済南大好き作品多数。本人も済南は第二の故郷と言ってはばからない。ひとは「済南は老舎を大成させ、老舎は済南を大成させた」と言う。
唐代李白も杜甫も大明湖に遊んだ。湖心亭に彫られた杜甫の対聯“海有此亭古 济南名士多”。済南には名士が多いだと。
大明湖北极阁には 元代 清 刘凤诰作 铁保书の対聯“四面荷花三面柳 一城山色半城湖”。
蓮の花、柳、千仏山、泉すべて済南中にあふれている。
蓮の花といえば、その化身ともたたえられる美女李清照。宋代超一流の女流詩人。趵突泉脇に住んだことから、園内漱玉泉わきに李清照紀念堂がある。 《漱玉词》におさめたれた宋詞“声声慢”はぼくの好みの詞。例の「淡い酒三杯ぐらい呑んだって愁いはぬぐえないわ」というやつ。勝手に貼り付けさせていただくので、お口に合えば玩味いただきたい。
寻(xún)寻(xún)觅(mì)觅(mì) 冷(lěng)冷(lěng)清(qīng)清(qīng) 凄(qī)凄(qī)惨(cǎn)惨(cǎn)戚(qī)戚(qī)。
乍(zhà)暖(nuǎn)还(hái)寒(hán)的(de)时(shí)候(hòu) 最(zuì)难(nán)将(jiāng)息(xī)。
三(sān)杯(bēi)两(liǎng)盏(zhǎn)淡(dàn)酒(jiǔ) 怎(zěn)敌(dí)他(tā),晚来风急(wǎnláifēngjí)? 雁过也(yànguòyě),正伤心(zhèngshāngxīn),
却是旧时相识(quèshìjiùshíxiāngshí)。满地黄花堆积(mǎndìhuánghuāduījī),憔悴损(qiáocuìsǔn),
如(rú)今(jīn)有(yǒu)谁(shuí)堪(kān)摘(zhāi)?守(shǒu)着(zhe)窗(chuāng)儿(ér),独(dú)自(zì)怎(zěn)生(shēng)得(dé)(hēi)?
梧(wú)桐(tóng)更(gèng)兼(jiān)细(xì)雨(yǔ),到(dào)黄(huáng)昏(hūn),
点(diǎn)点(diǎn)滴(dī)滴(dī)。这(zhè)次(cì)第(dì),怎(zěn)一(yí)个(gè)愁(chóu)字(zì)了(liǎo)得(de)。
尋ね尋ね 覓(もと)め覓(もと)むるに 冷冷たり 清清たり 凄凄たり 惨惨たり 戚戚たり 乍(たちま)ち暖かく還(ま)た寒き時候(きせつ)は 最も将息(やすら)ひ難し。三盃(さんばい)両盞(りょうさん)の淡酒(うすざけ)もて 怎(いか)で敵わん他(か)の晩来の風の急なるに!雁は過ぎぬ 正に傷心す 却って是れ旧時の相識。
地に満てる黄花は堆積して 憔悴し損し 如今(いま) 誰か有りて摘むに堪へん?窓児(まど)を守著(まも)り 獨自(ひとり)怎生(いか)でか(くら)きを得ん!梧桐 更に細雨を兼(くわ)へ 黄昏に到るまで点点滴滴たり。這(こと)の次第は 怎(いかで)か一個の愁の字をもて了(くく)るを得んや!
独处陋室若有所失地东寻西觅,眼前只剩下冷冷清清,于是凄凉、惨痛、悲戚之情一齐涌来。深秋骤热又骤冷的时候,最难以调养静息。喝几杯清淡的薄酒,怎能抵挡晚上大而急的寒风。正在伤心之时,传书的大雁飞过去了,却原来是以前就相识的。
地上到处是零落的黄花,憔悴枯损,没有人有摘花的兴致。守在窗子边,孤孤单单的,怎样捱到天啊!细雨打在梧桐上,一直下到黄昏时分,绵绵细雨还是发出点点滴滴的声音。这种光景,一个愁字怎么能概括得了!