いつの頃からか取り扱い説明書をトリセツなんて言い、世の中のあらゆるものがマニュアル化されつつある。
便利になればなるほどマニュアルが必要不可欠になり、その分量はどんどん増えていく。
あらゆるすべての事態を網羅的に列挙し、それについての個別の対応を精密にマニュアル化すべきだというのは、現代社会に取り憑いた病みたいなものだ。
マニュアルは精緻化するほどに分厚い書物になり、あるレベルを超えるともはやトリセツの用をなさなくなる。
そして、マニュアルを精緻化することで、僕たちの社会は「どうしてよいかわからないときに、適切に振る舞う」という、人間が生き延びるために必要な力を失い続けてるような気がする。
今の学生や社会人の必須アイテムみたいになってるコミュニケーション能力とは、「聞き出す力、理解する力、伝える力」と一般的によく言われている。
このような能力は昔から人間の基本能力で、どうしてわざわざコミュニケーション能力と取り沙汰されるのか、自分にはよくわからない。
どうしたら良いのかわからない時に、どうしたら良いのかがわかる能力がコミュニケーション能力だと私は思っている。別の言い方では、最も適切なやり方で、「トリセツにないことをする」、「コードを破る」能力だ。
どうしていいかわからないけど、決断は下さなければならないときが人生の岐路にはあるもの。就職先を決めるときも、結婚相手を決めるときも、僕たちは「こうすれば正解」ということをあらかじめ知らされていない。
正解が示されていない問いの前で「臨機応変に自己責任で判断する」ことを、今の若者は嫌う。想定外の事態に遭遇すると「何もしないでフリーズする」ほうを選ぶ。
彼らにとって「回答保留」は、「誤答」よりましなのだ。誤答を病的に恐れる傾向がある。コミュニケーションがうまくゆかない人たちは、例外なく、「変えてもいいルールを破る」ことができない人。
立場が異なる者同士が互いに分かり合えずにいるのは、それぞれがおのれの「立場」から踏み出せないから。自分の「立場」が想定する語り口やロジックに絡め取られているからだ。
トリセツやマニュアルに頼らないで、自分の頭でよく考えて、他人の立場も尊重して、最も最適な解や方策を生み出していく。自ずとコミュニケーション能力はついてくる。マニュアル化は進化に対して危険な側面をはらんでいる。
機械やものの操作はマニュアル通りやればいいのですが、対人間となるとそうはいきませんね。
臨機応変にラーメンの味付けも季節や好みで調理する、こらがピタリとハマった時は美味しさ以上に嬉しいですよね。