また暑くなるみたいだが秋の気配が確実に忍び寄って来ている。
朝の涼しさ、夜の虫の音もなな散歩で感じられるようになった。
若い頃から、努力は自分のためにするものだと思っていた。他の人のために頑張るなんてどこか偽善が入ってないかなと。
社会人になって、自分のためだけに努力したり頑張っても知れてるな、チームで頑張ってこそ大きなことが達成できると感じるようにもなった。
それでは、私たちは「自分のため」又は
「他の人のため」に努力するのか?
どちらが正しいのか?
ずっーと頭の片隅に残っていた。
5、6年前、内田樹の本を読んでいたらハッとさせられた。世の中に「働かない若者たち」が増えているという問題について、「なぜ、そのようなわかものが生み出されていったのか?なぜ若者は働かなくなったのか?」という問いに見事に明快に本で述べていた。
内田樹「街場の憂国論」より一部抜粋。
少し長くなるが読んでみてください。
若者が働かなくなったのは「努力すれば報奨が与えられる」という枠組みそのものに対する直感的な懐疑のせいだろうと思います。「みんなが争って求めている『報奨』というのは、そんなにたいしたものなのか?」という疑念にとらえられているのです。(中略)
努力すれば「いいこと」があるよ、というタイプの利益誘導の最大の欠点は、示された「いいこと」がさっぱり魅力的でない場合に、誰も努力しなくなってしまうということです。
私たちの社会は利益誘導によって学習努力、就業努力を動機づけようとしてきました。それが作り出したのがこの「働かない若者たち」です。
人間は自己利益のためにあまり真剣にならない。これは多くの人が見落としている重大な真実です。自己利益は自分にしかかかわらない。「オレはいいよ、そんなの」という気分ひとつで、人間は努力を止めてしまう。簡単なんです。
ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。「私が努力を放棄しても、困るのは私だけ」だからです。
でも、もし自分が努力をやめてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。
自分のために戦う人間は弱く、他の人を守るために戦う人間は強い。それは社会的能力の開発においても変わりません。
自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は、「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止まる。でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。
人間は、自分が「人のために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。
どうでしょうか。
しかし、内田の論で納得はしても、これで解決か?
それでも最終的には自分のためにと感じる部分がある。
イチローと王貞治の対話(Number674号)が想起される。イチローが様々な質問の最後に、「現役時代、選手の時に、自分のためにプレーしていましたか、それともチームのためにプレーしていましたか?」と訊いたのである。
王は即座に答えた。
「オレは自分のためだよ。だって、自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるのであって、チームのために、なんていうヤツは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやっている人が結果的にはチームのためになると思うね。自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ。何々のためにとか言う人は、うまくいかないときの言い訳が生まれてきちゃうものだからな」
それだけではない。イチローは、そのオフ、各界でトップに上がり詰めている人に会うたびに、同じ質問をした。すると、異口同音に「自分のためにやっている」と答えたのである。誰一人「まずはチームのためだ」とは答えなかったのである。
どうだろう。見事な対立意見ではないか。どちらも、努力が発動するための必要条件を「〇〇のために」という目的設定に求めている。
内田樹は「他の人のため」の方が「自分のため」よりも努力できるとし、王貞治は「自分のためにやる人が一番自分に厳しい」という。
両者の差異を先鋭化させれば、
「他の人のため」が上か
「自分のため」が上か、ということになる。
あなたはどちらに共感するだろうか?
私なりの結論はまたの機会にアップします。