平成に入ってからだろうか、大学生の学力低下、本や新聞を読まない大学生、漢字の書けない大学生がかなり増加してきて、いろいろなところで問題になっている。
昭和の私の世代は大学に進学する高校生の割合が30%くらいで、その後年々その割合は増加して、今や60%を超えた。少子化の影響でそれでも定員割れの私大は沢山ある。
学力低下の原因が、PC、携帯電話等の普及によるものなのか、社会情勢や学校教育によるものなのか、様々議論されてきた。
しかし、大学生の学力低下問題の原因や背景はいくつも潜んでいて、内田樹氏が『ためらいの倫理学』という20年前に刊行された著書に面白い考察(仮説)があったので一部紹介する。(長文お許しを)
『「最近の大学生はバカになったのでしょうか?」とよく訊かれる。答えるのに困る質問である。ある意味では「イエス」であり、たしかに学力は低下している。「壮絶なまでに」と申し上げてもよいくらいだ。だが、それを学生の責に帰することに私は一抹のやましさを感じる。
3年ほど前、学生のレポートに「精心」という文字を見出したときには、強い衝撃を受けた。だがこの文字はまだ「精神」という語の「誤字」であるということが直ちにわかる程度の誤記であった。
去年、学生のレポートに「無純」の文字を見出したときには、さすがにしばらく動悸が鎮まらなかった。それが「精心」とは違う意味での知的な「地殻変動」の兆候のように思えたからである。
文脈をたどる限り、「無純」の語をこの学生は正しく「矛盾」の意味で用いていた。「むじゅん」という言葉の意味をこの学生は理解していたのである。
「無純」という文字も、「(対立者を含んでいるので)純粋では無い」という解釈によるものであろうから、決してデタラメとは言えない。むしろ、「むじゅん」という音と、文脈から「無純」という「当て字」を推理した知的能力はかなり高いと申し上げてもよいくらいだ。
だから問題はむしろ、語義を理解し造語する能力まで備えた学生が、なお「矛盾」という文字を知らなかった、という点に存するのである。(中略)
現に私たちは毎日のように、「正確には再現できないが、読むことはできる」文字を使ってコミュニケーションをしている。「顰蹙(ひんしゅく)を買う」という言葉は日常的に使われているが、「ひんしゅく」と正しい漢字で書ける人はあまりいない。(私は書けない)「語彙」の「い」の字や「範疇」の「ちゅう」の字を「どう書くの?」といきなり訊かれたら困る人は少なくないだろう。
だが、「無純」が暗示するのは、そういう種類の「知識の不正確さ」とは別の種類の「知識の不正確さ」とは別の「知識の欠落」が蔓延しつつあるという現実である。
なぜ、「矛盾」が書けないのか?
「本や新聞を読まないからだよ」と言って済ませる人がいる。
だが、そうだろうか?
実際には、彼らはけっこう文字を読んでいる。彼らが愛読する「マンガ」というのは絵と文字のハイブリッドメディアであり、膨大な量の文字情報をも発信している。
それに彼らが日頃耽読している情報誌やファッション誌もまた少なからぬ文字情報を含んでいる。なぜ、これだけ文字に浸っていながら、「文字が読めない」ということが起こるのか?
私の仮説は次のようなものである。』
(後日続きを)
あまりに長くなったので、今月中には結論の続きを掲載します。内田樹という人はもう20年も前にとっくに予見していた。学力低下の教育論も様々な著書で明確に分析してその因果関係を突きとめている。
教育の専門家でないのにあまりに本質を切り捨てていて恐ろしいほどだ。その道の専門家は反論でがないしたぶん相手にされない。私は少し関わりのある傍観者として楽しく拝読させたもらっている。
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