戦後68年、戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍戦艦「大和」五番高角砲員、坪井平二氏(90)の証言を紹介する。
* * *
〈坪井氏は大正11年生まれ。昭和18年4月、徴兵により大竹海兵団入団。同年7月卒団、戦艦「大和」に乗り組む。以後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と転戦し、沖縄特攻に参加。〉
昭和20年4月7日正午前、戦闘配置に昼食が届けられた。「大和」最後の食事となる握り飯三個とタクアンふた切れ、それに缶詰の牛肉ひと切れ。
12時35分、敵編隊が来襲。対空戦闘が開始されたが、低い雲に邪魔されて主砲の咆哮は聞くことができなかった。我ら高角砲と機銃が応戦するが、左舷ばかり集中攻撃され、私のいた右舷には敵機が近づいてこなかった。1機だけ近づいて、ゴーグルをかけたパイロットの赤い顔が「ニコッ」と笑ったのが見えた。
第二波の攻撃は「大和」に集中し、回避運動による動揺で射撃が難しくなった。キツい臭いと煙が充満してきたと思うと、すぐ隣の一一番高角砲が全員戦死と知らされた。第三波攻撃の頃には左傾斜がひどくなり、高角砲の焼けた空薬莢が砲員に向かって落ちてくる。指揮所から指示が来ても対応できなくなり、そして指示自体が来なくなった。そうなると班長の命令で砲側照準(砲塔から直接敵を狙う)を行ない、とにかくやみくもに撃つしかなかった。
突然、砲塔の窓から海水が流れ込んできた。「総員最上甲板!」と聞こえた時には、すでに全員で上甲板に出ていた。傾斜がさらにひどくなる中、かつて呉のドックで見上げた“赤い腹”(右艦腹)に這い上がった。そこではみんな最後にポケットの乾パンをかじったり、恩賜の煙草を吸ったりしていたのが印象的だった。我々は袖や裾を結わえ、沈没に備えた。
14時25分、「大和」沈没。戦闘服のままで、ズルズルと海の中に潜るように引きずり込まれていった。巨艦の沈下する大渦に巻き込まれ、身体が木の葉のようにクルクル回転した。夢中で水をかき分けようとするが、効果は全くなし。目の前を大小無数の気泡が、白い球となって上がっていった。
気がつくと、真っ黒い油の層になった海面に浮いていた。周囲には戦友の頭や顔が見えた。上官の顔も見える。「よーし、生き残ってやるぞ!」と思った。そこに上空45度くらいから向かってくる敵機が、チカチカ光ったかと思うと機銃弾が飛んできて、一列縦隊に水柱を上げた。一人また一人と黒い頭が水中に没して消えてゆく中、私は運よく駆逐艦「雪風」に救助された。
航空機時代の到来を世界に示したのは誰あろう、日本である。その日本海軍の至宝「大和」が1機の掩護もなく米艦上機と死闘を交えなければならなかったとは、なんという運命のいたずらであろうか。
●取材・構成/久野潤(皇學館大学講師)