ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争 最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は大和の“航跡”についてこう記している。
* * *
「大和が沈む時は、帝国が沈む時」。そう謳われた未曽有の巨艦・大和は、昭和二十年四月七日午後二時二十三分、東シナ海に沈み、永遠の眠りについた。
大和に乗り込んでいた三千三百三十二人のうち生還したのは、一割にも満たないわずか二百七十六人に過ぎなかった。
戦後七十年近い歳月が過ぎ去り、生き残った乗組員も極めて少なくなった。
私は『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの執筆にあたり、最前線で戦った百人を超える老兵たちに取材をさせてもらった。その中には、戦艦大和の生還者も含まれている。
大和の元乗組員十七人とお会いし、その中には沈没時にあの重油の海から生還した方も十四人いた。大和はなぜ沖縄への水上特攻を敢行し、兵たちはどう戦い、そして生還者は、なぜ生き残ることができたのか。長い間、私が知りたかったことを老兵たちは詳細に証言してくれた。
大和が呉の海軍工廠で起工されたのは、昭和十二年十一月四日である。最高の軍事機密だった大和は、その後、四年一か月という歳月をかけて、昭和十六年十二月に竣工した。
大和の初陣はミッドウエー海戦だ。昭和十七年六月、聯合艦隊司令長官・山本五十六が座乗した大和の初陣は未消化のまま終わる。戦場となった海域から五百キロも後方にいた大和が海戦に参加しないまま、日本は惨敗するのである。
破竹の勢いを続けていた日本は、この戦いで空母四隻が沈没し、戦死者三千五十七人を数え、熟練の航空搭乗員が百十人も命を落とす痛恨の敗北を喫した。優れた傍受能力を持っていた大和が後方にいたため、南雲忠一中将が率いる空母部隊は敵の無線を傍受できないまま急襲を受け、壊滅。太平洋戦争の帰趨を決したと言ってもいいほどの痛恨の敗北だった。
大和が戦いの最前線に立ったのは、二年後の昭和十九年六月のマリアナ沖海戦だ。だが、この時も大和は主砲を発射したものの、敵の攻撃が大和ら前衛部隊ではなく、後方の空母部隊に集中したため、力を発揮することなく終わった。
大和は、昭和十九年十月二十三日から二十五日にかけてのレイテ決戦でも大いなる“悔い”を残している。
この時、日本はフィリピンの東方海上に空母部隊を囮にして米主力艦隊を引きつけ、空白となったレイテ湾に大和ら水上部隊が突入して敵輸送船団と陸上部隊の一挙殲滅をはかるという奇策に出た。それは、当時動員しうる艦船をすべて投入した作戦だった。
大和は、レイテ湾突入部隊の中核となったが、三日間にわたる激闘の末、栗田健男長官が土壇場でレイテ湾突入を中止。敵の護衛空母こそ屠ったものの、本来、企図した戦果を挙げることはできなかったのである