拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 Non-ナルシルト』の弁明

2024年12月20日 | 東洋自分なり研究所

  我がブログながら、自撮り写真が多く・・・どうなんだぁ〜と、思いつつもつい自分の写真をアップ、XやFacebookに若き日の、

  或いは爺いとなった、我が顔を見かけて、ギョッとする事がある。

 

  『どんだけナルシルト!、このジジイ … 』と思われているのだろうナぁ〜と、思った時、いつか弁明せねば・・・とは思っていたのだ。

 

  『ナルシルト』をググってみると、ニュアンスの多少違ういろいろな解釈があったが、私的に面白い解答を見つけた。

  【ナルシシズム」は「自己陶酔」や「自惚れ」などの意味で使われ、自分を愛したり、自分を性的な対象と見なす状態のことを指す。】

 

  まぁ…、多少は(根拠のない)『自己陶酔』や『自惚れ』はあるかもしれないが、『性的な対象』は、いくらなんでも無いだろう・・・と妄想した時

  『性』の字に、我が愚脳は即反応し『見性(けんしょう)成仏』…とアウトプット。

  『性』は性でも『せい』ではなく『しょう』・・・でしょうと、ここでも佛語漢字は『重ね合わせ・もつれ』性を発揮する。

 

  禅を立ち上げた、我が達磨(ダルマ)大師が掲げた禅・理念〜『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』・・・の『見性成仏』である。

  世が『色即是空』であるならば、『性』にも『色性』と『空性』があり、『自己陶酔』の『色性』が何時の日にか、その『性』を空じて

  『見性成仏』となる可能性を『佛道』というのではないか。

 

  『見性成仏』の『見性』は、人間の『本性』であり、『人間性』探究の根源であるだろう。

  従って、人間は自分を『見る』ことに、強い欲求を持っていて、何ら恥じることはないが、その『見る』は、主語のない『観る』への昇華を要する。

  私は『見性成仏』は本来、『観性成仏』の誤訳だと思う。(或いは何か別な事情があったか)

  佛語としての『見』は、自他不二で主語のない『観』がふさわしい・・・と、『観自在』の馬の骨は云う。

 

  まさに『観自在』こそ『観・自・在』で、『分が生きてるをる』・・・『佛道とは、自己を習うなり…(道元禅師)』の一点『観』に集約する。

 

  私ごとき馬の骨でも、『還暦スキャン』すれば

  10代・・・盲目の養母の眼と成る可く過ごす子供時代・・・

  20代・・・何故か『写真道』に没頭する日々・・・・・・・  * いずれの世代も、つまるところ 『観』に落着!

  30代・・・禅修行没頭・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  そうであれば、私がつい『自撮り写真』をアップしたとて、『ナルシルト』と云うなかれ、人をこよなく愛す『撮人家』の『性(さが)』でもあれば…。

 

          

     私もかって、川面に『自己の姿』を映して、ナルシルトたりえたかもしれないが、もう一つの 佛『性』がそれを超えさせた図