拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  人"間"工学 〜 『間』は縁起エンジン

2024年12月28日 | 人"間"工学

  いろいろ書きたいことがありそう…なのに、なんで今『間』なのか? 『間が悪い』というか『間抜け』・・・。

  これもまぁ、師走ということで若干焦ってのことか。

  

  あまり更新してないが、『人"間"工学』という、カッコいいカテゴリー項目がありながら、最も肝心な『間』について未だ書いていなかった。

 

  私のように無学な者は、最初は直感・・・のちに直観を強化するものだろう。

  坐禅を始めるようになって、『人間』という日本語の『間』がなんだか不思議で気になって気になって・・・というようなことを

  昔付けていた三日坊主日記ノートのどこかに、そんなことを書いていた部分を発見して、『へえ〜』と思ったが

  『東洋自分なり研究所』を興してから、我が愚脳にインプットして放って置くと、『自然』に答えはアウトプットされるようだ。

 

  そもそも『人間』という言葉が佛語であれば、自ずからそれは、『佛』意であり、『弗』の字姿は『間』を表す象形文字と私には観え、

  『人間=佛』という事が、漢字方程式で解けば観えてくる。

  

  去年? 『あいだの思想』という辻信一・高橋源一郎共著を買って読み、最近再読し始めて、あぁやっぱりいい本であるなぁ…と感心。

  サブタイトルが『セパレーションからリレーションへ』で、人間の『間』もその一語に尽きる気もするが、

  禅のような『己事究明』への踏み込みは十分ではなかった気がする。

  彼等は私とまったく同世代で、それぞれ道は違ったが『間』に注目するあたりは世代間に何か共通項があるのだろうか?

 

  彼等のいう『セパレーションからリレーションへ』というのを、『己事究明』の佛道に応用すれば、それは自然と『縁起』として展開する。

  『縁』を起こし、生涯作動する・・・そのシステムを釈尊は初転法輪で『中道』と云ったが、それは後に大乗仏教徒によって『間』となり

  『人』がそれを本性として備えているので『人間』と名付けた・・・と馬骨は解釈する。

 

  だから、『間は縁を起こすエンジン』であり、エンジンは『縁仁』とでも名付けようか・・・。