いろいろ書きたいことがありそう…なのに、なんで今『間』なのか? 『間が悪い』というか『間抜け』・・・。
これもまぁ、師走ということで若干焦ってのことか。
あまり更新してないが、『人"間"工学』という、カッコいいカテゴリー項目がありながら、最も肝心な『間』について未だ書いていなかった。
私のように無学な者は、最初は直感・・・のちに直観を強化するものだろう。
坐禅を始めるようになって、『人間』という日本語の『間』がなんだか不思議で気になって気になって・・・というようなことを
昔付けていた三日坊主日記ノートのどこかに、そんなことを書いていた部分を発見して、『へえ〜』と思ったが
『東洋自分なり研究所』を興してから、我が愚脳にインプットして放って置くと、『自然』に答えはアウトプットされるようだ。
そもそも『人間』という言葉が佛語であれば、自ずからそれは、『佛』意であり、『弗』の字姿は『間』を表す象形文字と私には観え、
『人間=佛』という事が、漢字方程式で解けば観えてくる。
去年? 『あいだの思想』という辻信一・高橋源一郎共著を買って読み、最近再読し始めて、あぁやっぱりいい本であるなぁ…と感心。
サブタイトルが『セパレーションからリレーションへ』で、人間の『間』もその一語に尽きる気もするが、
禅のような『己事究明』への踏み込みは十分ではなかった気がする。
彼等は私とまったく同世代で、それぞれ道は違ったが『間』に注目するあたりは世代間に何か共通項があるのだろうか?
彼等のいう『セパレーションからリレーションへ』というのを、『己事究明』の佛道に応用すれば、それは自然と『縁起』として展開する。
『縁』を起こし、生涯作動する・・・そのシステムを釈尊は初転法輪で『中道』と云ったが、それは後に大乗仏教徒によって『間』となり
『人』がそれを本性として備えているので『人間』と名付けた・・・と馬骨は解釈する。
だから、『間は縁を起こすエンジン』であり、エンジンは『縁仁』とでも名付けようか・・・。