今日、12月8日は2500年前に釈尊が悟りを開いた日である。
その意義の重み・・・のようなものは、私の円覚寺でのささやかな禅修行体験ではあったが
12月の臘八接心(ろうはつ・せっしん)という一週間の集中修行のただならぬ雰囲気をもって
いまだに私の背筋を伸ばす体験として骨まで染みついたが、それこそが禅寺が修行僧に課す『重い課題』ではなかったか。
その意味は、禅者はすべからくこの12月8日という日に、
その時代に沿った『禅とは何か』という問を、自身に問い直す・・・という事なのだと私は思う。
そこで今日のブログタイトル、『禅とは・・・東洋の人工智能』ということになった。
佛教では古来より『悟りの智慧』は、一般にいう『知恵』とは、次元が違うということで『智慧』と書き表すが
そこはそれ、『考えるな、漢字ろ!』で、日本人はその違いを知るべく、世界中から期待をになっている事をもつと自覚すべきだ。
ことに私達は『AI時代』という、良いものか悪いものか予想もつかないモノを手に入れつつある時代にあって
その『AI』を、人類が幸福に生きるうえでの制御のきく『道具』として、使いこなす為には、
釈尊が2500年前に悟りを開いたまさに『人工智能』の開発こそが、現代の私達に求められている・・・
そして、それを知っているのが『禅』なのだ。
禅が『Zen』として、ゆるやかに世界に浸透している理由も、そこにあるのではないか。
『知恵』の『知』と、『智慧』の『智』の違い・・・それを体得するには、『坐禅』が早道としか、私には言えない。
この絵は、もう40年以上前カレンダーに使われていた図柄で、残念ながら作者名も知らないが、
私が今日書いた、『悟り』が『東洋の人工智能』であることを『天上天下唯我独尊』と力強く宣言している図