拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  佛性・両志力覚

2024年12月04日 | 東洋自分なり研究所

  最近の私の妄想狂力は手が付けられない状態にまで上昇し

  『 このままでは、科学はいずれ「佛教」に同化するであろう 』・・・と言うレベルだ。(科学を何も知らない…から何でも言えるよね)

 

  であるから今日のタイトル『両志力覚』は、もちろん『量子力学』から発生した佛語で、その心は『重ね合わせ・もつれ』だ。

  だいたいにして、『自他不二』…とかの『不二の法門』や『色即是空空即是色』や『観世音=観自在』などなど『佛性』の根本的なところを

  深堀りすると現象の根源が『重ね合わせ・もつれ』で、そこに『観』が働くことで、佛性が覚醒するのだから・・・こりゃ『両志力覚』だべや。

 

  その意味では『重ね合わせ・もつれ』の専売特許は『佛教』であり、それは梵語から漢訳されさらに、日本に漢字で渡来することで

  『重ね合わせ・もつれ』度は、一層深化したと思われる。 ただ、そこに焦点の『観』の眼を差し向けた人は少なかったのだ。

 

  例えば、私の提唱する『自分経』であるが、

     『  自(おの) ずから  分かれ 自ずから分かる・・・(他力)

        自(みずか)ら    分かれ 自ら分かる  ・・・(自力) 』

 

  この二つの『自分』の『重ね合わせ・もつれ』が『無心』の働きによって一体になった時、『自分』が『自他不二』であるという『観』を得、

  『不二の法門』を自覚することが『縁起』となり、『慈悲心』を生じ『佛性』に目覚める・・・というカラクリが『両志力覚』なのである。

 

  道元禅師は 『 仏道を習うというは 自己を習うなり。 自己を習うというは 自己を忘るるなり。

          自己を忘るるというは 万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるというは 

          自己の身心 および他己の身心をして 脱落せしむるなり 』  ・・・と言っている。

  

  また他のところでは 『 ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、

              これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる  』 ・・・とも言って

 

  道元禅師は、他力的な『自(おの)ずから』の『自分』を強調しているキライがあるが

  仏に目覚めるには、『自(みずか)ら』の『自分』との一体(両志力覚)があって初めて、『観』に覚醒するのではないだろうか。

 

           

            相方が、クリスマスツリーを欲しがるので、我が植木の松をそれらしく飾り付けてみた図