昨日Youtubeで二人の40歳代(?)日本人男性が Zoomで『悟り』について真剣に語り合っているのを聞いた。
その二人は別に学者でも僧侶でもなく、ごく一般人として『悟り』を探究しているようで、知的で穏やかな感じを受けた。
そういった場面に私自身は立ち会った事がなく、非常に新鮮な印象を受をうけた。
この二人の会話を聞くことで、私の『悟り』解釈が自分自身に対してより鮮明になった気がして、その意味で有意義であった。
私の『悟り』は『郷里』、これを『きょうり』と読まず『サトリ』と読ませるところがミソになっている。
私にとって『悟り』は何も無いところから突然閃いて現れるのではなく、『生まれた時点が(悟り)状態』である…という認識。
しかし、この認識は仏教では『山川草木悉皆成仏』と言い、人間のみならず本来何もかも『悟っている』という常識ではある。
ただ人間だけが、『無我−自我−無我の自我』と途切れた道を超える作業を『意伝子』は組み込んでいるから人生は面白いものになる。
『郷里・サトリ』という処に帰るように『意伝子』は私達に働きかけてくるのであるから、私たちは普段から『郷里・サトリ』に
意識を向けていなかれば道を完結することはできない。
その意志の表れの一つが『合掌』なのだと私は思っている。そしてそれは同時に『悟り』の正体である『不二の法門』を象徴している。
だから仏教徒は皆、『合掌』をする。(ただ大半の人が無意識ではあるが・・・)
古代の中国人は『横から見た人の形』から文字を象ったことが甲骨文字からわかる。
しかし、現代日本においては、本にしろ、モニターにしろ、右上図にあるように『人』…と完全に左右の線が『合掌』している。
馬骨的にはこれは偶然こうなったわけではない、『意伝子』の働きかけがこうしたに違いない。(本当か?)
この『合掌』こそは、『人』が『自他不二』で、自己の幸せの実現は他己の幸せなしには完成しない…ことを象徴している。
左右の掌が合わさって『合掌』が実現するように、自分だけが幸福になっても『意伝子』は満足しない・・・それが『人』の字で象徴している。
『人』の字を読み書きする時は、心のなかで『合掌』をイメージして欲しい。自分との関係、他人との関係が必ず良くなる。
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