いつも独りよがりな滅茶苦茶いっているけど、今日の『ノギヘン』ほどではなかったであろう・・・。
まさに『考えるな、感じろ…』のブルース・リー師のお言葉を受けて『考えるな、漢字ろ!』と自己を叱咤激励したすえの『ノギヘン』であり、
円覚寺の老師から頂いた公案『庭前の白樹子』を三十数年にわたり、今もって立ち向かう私、馬骨だからこその『ノギヘン』・・・なのだ。
それにしても、老師はなぜ私に公案『庭前の白樹子』を選んでくださったのか? 私の名字『森』にちなんだわけでもないだろうに。
私はある種かなり馬鹿で、いつの頃からなのか漢字の文字に対して勝手な解釈を加えては、勝手に腑に落ちる質であり
その最初のキッカケ文字は『自分』の『自』、『目』の上の第一画のシュっと書く斜めの線は私にとって『眉』の形状を示し
物事をしっかり『観察』することを象徴している『線=意識』・・・であると勝手に解釈していた。
で、数年前に『考えるな、漢字ろ!』に開眼して
『仏教』は 人をして無(ム)する教え… 無(ム)から仏になる教え・・・という簡潔な馬骨解釈に腑に落ちてからというもの
日常的使っている言葉、特に重要な日本語には仏教の真髄である禅のエスプリがたっぷり込められているのを観る。
公案『庭前の白樹子』であるが、9世紀ごろの中国での話
僧問う 『如何なるか是れ祖師西来意』(祖師ダルマがインドからやって来た精神は何ですか?)
師云く 『庭前の白樹子』・・・ (庭の前にある大木!)
私が老師より頂いた公案は、こんな問題にもならないような『問題』であった。
これって、今考えるとまさに『木』に『ノギヘン』の第一画『ノ=意識』をひたむきに傾ける行為でした。
それがどこに向かうのかサッパリ分からず、とにかく大樹の前で坐禅、大樹になりきる気で坐禅と、ずーっとやっているうちに
大樹も何もない『ノギヘン』=『ム』・・・になっていた、つまりそれが『私』っていうことであった。
それにしても、一体誰が『わたし』を『私』っていう日本語に決めたのであろうか???
日本語の『私』は 中国語で『我』であって、『私』(=無我)という漢字は日本でしか使われいない・・・。
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