先日、日本人と結婚したインド人女性のインタビュー記事を読んだ。
この女性はグーグルの広報で働いていたことがあるそうで、大学時代にインドから日本の大学に留学したとき
来日一年後に日本語検定一級を取ったそうだ…!(驚愕) 彼女は今、5ヶ国語を話すという。
彼女によると、インドの多くの家庭では子供が2歳の頃から勉強を始める…とのこと。
アメリカのシリコンバレーの企業のCEO(最高責任者)にインド人が多いのは、そういった英才教育が徹底しているからなのだろう。
この『英才教育』の話を読んだ時、私は自分の生い立ちの事を思った。
私の場合、英才教育とは真逆の『放任教育』というか、家庭の事情というやつで、小学校5年生頃、いつも学校に残されるようになり
ようやく勉強が大切であるらしい・・・という意識が芽生えたくらいに勉学とは遠い距離にいた。
私を出産した母は直後に体調をくずし、私は盲目で文盲の『育ての母』に6歳まで育てられ、『勉強しなさい』と言われた事がなかった。
しかし今考えるに、私は『英才教育』ならぬ『映才教育』を受ける運命にあったのだなぁ…と思う。
幼少のとき二人の母の間を行ったり来たりしていたが、手始めに二人の母の気持ちを私の心は映していただろう。
誰もが持って生まれた『大円鏡(智)』に、私はただ無心に出会う全ての人の心を映しては In-Put していた。
高卒後、東京で就職したものの3ヶ月ほどで辞め、神戸で『写真学校』の看板を見て、それまで将来の目標が
定まらなくてもがいていた私に『光明』が射したのも、写真を撮る行為が『映す』鏡智を磨く修行だったからではないか。
そう考えると、その後に禅門を叩く事になったのは本当に偶然ではなかったような気がする。
そんな風に、英才教育を受けられなかった境遇の自分をあくまで肯定的に観る事が出来るのも
大円鏡智の『映才教育』のおかげであろう・・・か。(あるいは単なる馬骨)
映すのは 己の影と 思いきに 影が一撮 しっかり撮れと
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