俳号を『一撮』としてから早10年がたった。
2011年6月にスマートフォンを買って、友人の勧めで『ツイッター』を始めた時、俳句をツイートすることを思いついた。
それまで、俳句など作ったことがなかったのに。
しかしなんでかな? 五七五・・・の口調だと、なんかかんか口をついて言葉が出てきて
ローザンヌ〜ジュネーブ間の電車通勤が楽しくなったものだ。
今から考えると、『ツイッター』と『俳句』が私の SNS(Social Networking Service)への参加入門で
奇しくも3・11の直後というタイミングであったこともあり、『俳句』から徐々に自国の『政治』に眼を開いていった。
当時は『反原発』系のツイートが多く、それがキッカケでYoutubeやFacebookへと広がっていった。
2013年の『東京オリンピック招致プレゼンテーション』の際、安倍総理が福島原発事故については『アンダーコントロール!』と
言った一言には衝撃を受け、日本の政治的現状の認識を新たにし、還暦を過ぎて初めて『投票権』を施行することになった。
2011年初期の俳句 : 異国語や 眠りを誘う 帰宅電
調子出て ツイツイさえずる 雨燕(アマツバメ)
生も句も 限られてこそ 活きるかな
つぶやきが 叫びに変わる 日に生きて
2013年頃 地震ごと 人は誇りも 失って 不満転嫁に 在日いじめ
したり顔 無感覚ゆえ 無関心 沈黙守り 子ども守らず
帰宅電 秋の深まる 風情を 時々見ては ツイを読む我
・・・こんな感じで、後になるほど政治的になり、俳句より短歌もどきが増えていった。
20代の頃、私は写真に没頭したが、俳句と写真は非常に似ていると改めて思う。
私の中では 『写真』があり、その後『禅』の無言の時期を経て 『俳句・短歌』・・・と流れて来たような気もする。
飲まぬ俺 酔わせてくれた ワインハウス :一撮 ・・・ これも2011年頃の写真、携帯で動画を見ながら歌を聞ける
時代に私は感動し、死んでしまってから彼女の存在を知った事を残念に思った。