拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  十字相と円相

2023年12月24日 | 東洋自分なり研究所

  初めてヨーロッパに来たとき、カトリック教会の十字架のイエス・キリストを見た時の衝撃は忘れられない。

 

  私が住んでいる地元、ローザンヌ、ジュネーブを州都とするヴォー州やジュネーブ州はプロテスタントなので教会には十字架しかないが

  隣の州、ヴァレー州やフリブール州はカトリックなので教会には十字架とキリスト像が掲げられている。

 

  私は最初に、十字架のキリスト像を見た時、『これは公案(禅問答)だ!』・・・と、強く思った。

  その思いはますます鋭利になり、まさにいつもの『自分なり研究』というレベルで、キリスト教を理解できるような気がしている。

 

  十字架或いは、キリスト像ありの十字架というシンボルは、まさに禅のいう『不立文字』そのもので、読み書きのできない

  一般民衆の心に直接、呼びかけてくる『神の声』であったであろう。・・・その意味では『十字架』はまったく『公案』そのものであったと私は思う。

 

             

 

  釈迦の悟りを『円相』としてシンボライズするのは仏教の中でも、禅宗の禅僧だけなのではないかと思うが、

  果たして日本の国旗の『日の丸』は『円相』としての思想は表して無いのか?

  意識がそこに行ってない者にはそうとは、観えないであろうが、私のような禅的単細胞には『円相』にしか観えない。

 

  そういった意味ではキリスト教は『十字架』を『十字相』として見事にシンボル化して世界中に浸透させた点は凄い。

 

  私が理解する『十字相』とは、円相が『無』であり『空』である『0(ゼロ)』を絶えず標榜する『意』き方であるとするならば

  『十字相』は縦・横の交差する十字線が絶えず『0(ゼロ)』を示す続ける、十字架の『死』と十字架上のキリスト『生』の『座標軸』に観える。

 

  『円相』も『十字相』も、どちらも同じものを表現していたと考えるのは愉快で、今日は、心から『メリー・クリスマス!!』と言えそうだ。

  私がヨーロッパまで来た、意義・・・というのも、こんなあたりにあったのかもしれない。

 

  そういえば、私の国の国旗と、今住んでいるスイスの国旗はまさに『円相』であり『十字相』であるのが、面白い。



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