もう18年ぐらい前(?)、チューリッヒでギャラリーをしていた日本人女性オーナーが『刻む』というテーマで各分野のアーティストに出品を
依頼し、私も写真で参加することになった。
色々思案した結果、写真に『禅語の文字』を書き入れた作品を提出することにしたが、写真に文字を入れる…という以前であれば絶対にやらない事が
できたのは銀塩からデジタルへの写真処置変換したのが一番の原因であった。
それまでの私にとってタブーであった写真に文字を入れる行為は、まさに『刻む』…という重い事であったのだ。
後にツイッターを俳句や短歌で始めるようになったのを切っ掛けに、写真に自作の短歌をかぶせる作品を創るようになって、その作品をドイツ語圏の
ギャラリーに展示するにあたり、フランス語とドイツ語訳を添えたが、その時、翻訳がいかに困難であるかを痛感すると同時に日本語の繊細さに
改めて感心した。
写真に文字を入れる事と俳句や短歌を推敲するあたりから、写真を撮る行為と俳句を練る行為の類似性、漢字という文字がいかに視覚的で『絵であり写真』
であるかを痛感するようになった。
私達日本人が心象を表現する際に日本語の言い回しや、漢字の存在がいかに重要であるかを認識するようになったのである。
西洋人がアルファベットで意味を汲み取る行為と我々日本人が漢字で意味を瞬時に汲み取る行為は『ロボットと人間』ぐらいの差があるはずで
そのちょっとした違いが人間をして人間である『直感』を働かす生物としての進化を促すに違いなく、そこにこそ日本文化の基礎があるように思う。
『考えるな、感じろ』…は映画『燃えろドラゴン』で師匠のブルース・リーが弟子に言った言葉
私の写真も『考えるな、感じろ』がベースで、心象の深い景色を詠うには『考えるな、漢字ろ!』となる。
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