昨日、映画『万引き家族』を3回目観て心底びっくりした。
初めて見るような場面が3箇所もあったからだ。もしかして、ディレクターズ・カット・・・っていうやつかなぁ、と思ったりして。
確かに一回目はローザンヌの映画館で見て、読む必要がないフランス語字幕につい気が取られ、音響が悪いのかセリフが聞き取れず
カンヌ賞受賞で大評判…というので期待しすぎたためか、ところどころ眠り込んでしまった。
だから、友人と会ってこの映画評をしあったとき、私の評価は低かった。『たいしたことないよ、この映画…』
で、一年半後?2回目をアマゾンプライムで観たとき、やっと世間並みの評価になった。
で昨日、3回目観たとき、素晴らしい映画…と、心底わかった。一応、写真家の端くれくらいに自分のことを思っているので
鑑賞眼には過剰なくらい自信をもっていたから、一回目であるいはせめて二回目でこの映画のよさがわからなかった自分に
びっくらこいたのだ。鑑賞眼?審美眼?・・・『ぜんぜんなかったね、俺…』と。
是枝監督に感心して、ついでに『そして父になる』の2回目を観て、だんぜん1回目より良かったし、深かった。
この二つの映画、『生みの親より育ての親』…という言葉がキーワードの一つではないかと思うが、
私自身、生みの母と育ての母の間を実母が死ぬ16歳まで行ったり来たりして育ったし、育ての母は私以外の子供も
同時に育てていたので、映画のように擬似家族…とも思わず、ただただ育った。
映画万引き家族の最後、翔太という男の子が万引して捕まるが、仮の父親に『わざと捕まった…』と告白する。
これは自分の道を歩む為には、『親を切る』必要があったからだ。
どんな子にも親がいるが、自分の道をゆくには『親を切る』場面が必要だ。
そしてそれは、人間の遺伝子D.N.Aに組み込まれているのだと思う。
D ( Dignity), N ( Nature), A( Absolute)…だから。
この写真は、私が3歳(?)の時、蒸発した父が数日戻ってきたときに撮った写真のようだ。
私の場合は『親が子を』幼いうちに切ってくれたおかげで、現在の私があるのだと思う。
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