『汝ら諸人 この山中に来たって道の為に頭をあつむ 衣食の為にすることなかれ 肩あって着ずということなく
口あって食らはずということなし 只すべからく十二時中 無理会(むりえ)の処に向かって 究め来たり究めさるべし
光陰矢の如し 謹んで雑用心することなかれ 看取せよ 看取せよ・・・・ 』 興禅大燈国師遺誡(こうぜんだいとうこくしゆいかい)
円覚寺・居士林の門を叩いた時、頂いた『修養聖典』にある大燈国師のお言葉の前半部分であるが、修行中時折このお経を唱えた。
以前にもここに書いたと思うが、このお経、私にとって実にカッコいい…ものであって、今風に言えば『仏教ラップ』であった。
『禅とは何か』という問があれば、このお経の文句こそはそれに簡潔明瞭に答えている。
当時、このお経を読んでいても、何のことやら解らずに大声で唱えていたものだが、今頃になってビンビン来るものがあり、感謝にたえない。
そうあの頃は『無理会』にただひたすら向かった10年であって、自分で一区切りつけて『山門』を下れば…それこそ何も解ってない自分に呆れたものであった。
今、私は自分を仏教徒と自称しているがそれすら怪しい・・・。 しかし、それこそが『禅』であった。
そんな私が禅修行をふりかえるに、坐禅の『坐』こそ『型』の原型・・・であるとあらためて思ったりする今日此頃。
ふだん私がいう『道の文化』というのは『型』の習得から始まり、郷里(サトリ)に到る『道』の日本伝統的『修行』をいうが
『坐』という不動の『行』にこそ『心身一如』の体感を結実させ、生涯を通じて丹田(呼吸)を実現させる『型』であると思う。
『坐禅』こそは『無理会』以外に向かう処が一切ない『型』を原型とする『道』なのだ。
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