私の愚脳に常に流れている命題(生涯を懸けたテーマ)は、『禅』が現代に果たすべき役割の研究と、その一般への周知・・・であろうか。
その流れの中で問われる『禅とは何か?』との問に、私自身に一番『刺さった』と思われる答えが・・・『犀角独歩』つまり
『犀の角のように、ただ独り歩め』、スッタニパータという最古の仏典に約46項目にわたって説かれた教えであるかもしれない。
例えば22番目〜貪ることなく、偽ることなく、渇望することなく全世界においても妄執のないものとなって犀の角のようにただ独り歩め。
例えば37番目〜音声に驚かない獅子のように、網に捉えられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
(仏教学者、中村元著『仏陀のことば』より抜粋)
毎朝行う練功十八法の最後の動作『雄関漫歩(堂々と歩く)』は、私には『犀の角のように、ただ独り歩け』・・・であった。
禅の教えはもとより『不立文字・教外別伝』で文字言葉に依らない、経典に依らない・・・という路線で、仏教宗派の中でも特殊な位置を占め
囚われる事を嫌う、最も自由な立場を標榜するが、仏説『犀角独歩』の教えこそその片鱗を十二分に表現しているのではないだろうか。
事実、私自身の禅修行体験とその後の自身の生き方を顧みるに、禅とは『犀角独歩』に他ならず・・・と、そのようなことを最近愚考したので
以前書いたブログ 2018年8月21日のブログ記事〜『犀角独歩』を再読すると、まったく同様なことを昔すでに考えていた事を知った。
ただ新しい発見? を付け加えると、すべての仏教徒が慣習的に行っている『合掌』・・・そのものが『犀角独歩』の『犀角』思想の象徴であった。
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