ついでに、『通りゃんせ』を聞いてみた。
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
子供の声で、詩的で美しい旋律であるのに『御用のないもの、通しゃせぬ』・・・と、峻拒する様子に、私はすぐ雲水(禅の修行僧)が
禅寺に入門を乞う厳しい儀式のことを思い浮かべた。
ここはどこの 細道じゃ 〜 この謎掛けがそもそも、とても素敵で詩的で、これはどうしたって此岸から彼岸へ到る道のことであろう。
御用のないもの 通しゃせぬ 〜 『通れ、通れ』と言いながら、通ろうとすると峻拒する様は、実に禅の入門儀式そのもので、強い覚悟を促している。
この子の七つのお祝いに 御札を納めに参ります 〜 このセリフが泣かせる。自分の中の『未熟な自我』を七歳の童子であるとしているのだ。
そして納めるべき『御札』というものを各人は持って生まれたことを言っている。
行きはよいよい 帰りはこわい 〜 『行き』はアドレナリンの勢いで押し通せるが、『帰り』の時分はどうなっているやら・・・期待と不安の心境
『帰りはこわい』には、とても深い意味があり、それは各人が探究すべきもの。
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ 〜 ここのところが、『禅の心は母心』というべき、老婆心にあふれ祖先(達磨)等が培い築き上げた修行道場へと誘う。
ここまで書いてきて、このわらべ歌は実に『侘び寂び』・・・だなぁ〜と思った。
『侘び寂び』というのは、厳しい覚悟の末、後に腑に落ちた心境を表した言葉ではないだろうかと思い、厳しい覚悟の無いところに『侘び寂び』など無いのではとは思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/d4/d939e162c5e36cac4223503fa6861f50.jpg)
此岸までは、七歳の子供でも行ける。問題は此岸から彼岸へ到る『細道』なのだ。
『通りゃんせ』・・・と『円覚』への道に促すのは門前に待ち構える『仁王様』で、厳しくもやさしく言ってくれている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます