今朝のスイス・メテオ(天気)情報アプリによると、『花粉』勢力も若干弱まりつつあり、我が愚脳も復調の兆しありの模様・・・。
我が『東洋自分なり研究所』における『間』の研究に進展が観られたかも。
私の研究カテゴリーとして『人"間"工学』があり、日夜何もシナイ(無相)ことで『間』の覚醒を促すシステムに分け入ったもので
たまたま今読んでいる『禅』鈴木大拙(英語版)著・工藤澄子訳・・・98ページに
『仏陀は「一つの声」で説法したというが、帰依者たちがそれを解釈し、理解した受け取り方は、実に様々に異なっていた。
これは避けがたいことであった。なぜならば我々は、めいめい、自分自身の内的経験を有するが、それを説明するには
各自がみずから創り出した言葉によらなければならない。(中略)しかし、個人の内的経験はたいていの場合は
まったく独創的な語法を必要とするほど深くはげしいものではなくて、古い用語(昔の独創的な指導者の一人がかって使った言葉)
を新しく解釈することで、こと足りるかもしれない。偉大な歴史的宗教は、どれも、この方法でその内容や思想を豊かに成長させる。』
・・・という記述を発見し、『我が意を得たり』の心境を得、
ふだん『オヤジギャグ』と自虐的に受け止めている我が事象に関して多大なる賛意、また『道』に到る様は『百人百様』である事だ。
私が言う『人"間"工学』の『間』が馬骨論『自分』(自ら分かれ、自ら分かる)の『自ら分かれ』に由来していることは、直観していたが
それがどのように?・・・というところを問題視していたところ、ふと『魔が差して』の語が我が愚脳に到来し、
頭がボーっとしている時には『魔が差し』、心が真に『無』であるとき『間が差す』・・・それで『自分』が実現する・・・のだと解る。
鈴木大拙の著書の大半は『禅録』によるそのような事象の紹介に終始していると言っても過言ではない。
この書籍『禅』も沢山の『禅語録』が載っているが、今回私が特に傑作と思ったのを紹介したい。 131ページ
『 趙州は中国におけるもっとも偉大な禅僧の一人である。ひとりの僧が彼に問うた「真理の究極の一語は何でしょうか?」
特別な回答を与える代わりに彼は「うん」とただ返事した。僧は、もっともなことながら、このような返答には何の意味も見出しえなかったので、
ふたたび尋ねた。すると師は怒鳴り返した、「わしは聾(つんぼ)ではない。」・・・ 』
このような事象が時として、人を『間が差す』状態におとしめ、『人"間"』を覚醒させるのだろうか。
『魔が差す』か『間』を差すか・・・我が相方は関せず、遊覧船を待つのみ
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