先日、25、6年ぶりに昔のガイド仲間に街で出会い、遊びにおいで…と招待され、数日後に相方とおじゃました。
周りが畑と林に取り囲まれた友人宅からは遠くに湖も見え、小さなプールもあって80歳を目前にして悠々自適といった感じ。
夫婦共に元気で散歩や旅行、スポーツ三昧の生活で、いわゆるヨボヨボの高齢者といったイメージから遠いお二人であった。
小一時間ほど談笑しておいとましたが、その後帰宅して時が経つほど、彼等との談笑が何か空虚な感じがして気になっていたが
翌日になって、その理由が『スピリチュアル』性の欠如、彼等の生き方の中に『スピリチュアル』なるものの欠如が
『ゆったりと落ち着いた』的な余裕や楽しさ・・・というものを感じさせなかった事に思い至った。
私は友人皆んなに『スピリチュアル性』を求めているわけではなく、そんなものを持っている人は稀である事をよく知ったうえで
思うのは、ある程度の高齢者となった人々がその長い人生の中で『スピリチュアル性』を育んでこなかった事実を悲しく思うのだ。
『スピリチュアル性』なるものは一銭にもならなかったワイ・・・と自分の過去を振り返った時(還暦スキャンした時)
そういえば、三十を超えてから始めた『禅修行』は、『道草食った』感は確かに自分の心の片隅にあったことを告白しておこう。
自分ながらに、『何をやっているのだろう・・・』とは思ったものだ。鍼灸学校の仲間たちが一流の鍼灸師を目指して頑張っているとき
私は一銭にもならない『禅』にうつつを抜かしていたのだ。
しかし、今思えば、その時の道草こそ『道の草』であったことを知らずに、私は一生懸命『道・草』を食らっていたわけだ。
私はよく『道の文化』とそれを表現するが、人生における究極の『?』に出会い、それに向けて探究を促す『道の文化』こそは
人生の中にスピリチュアルな『香り』を醸し、生涯を通して、自他の人生を豊かにするのではないだろうか。
短歌の文字がボケているのでここで清書
『 道草の 味こそ後の 滋養かな 酸いと甘いを 噛み分けながら… 』 馬骨
私も短歌を学んでいますが
3句の「滋養かな」が全体のバランスを崩しているように思います、
「らし」推定、••らしい、又は「なり」断定、にされたほうが短歌の流れが良いように思います。
とても良い短歌なので3句でつまずく感が有ると思いました。
嫁いでからの日々…。
素直にみ教えに耳を傾けられない時期もありましたことを思いだします。
それでも今拝読し心に響くものを感じ、励まされる思いがいたします。
問思はこれからもずっと続くのだと思います。
とても嬉しく拝読です。
自分でも他に言葉が思いつかず『滋養』というのは、どうかなぁ…と思っていました。でも問題は『かな』ですか?兎に角、誰も指導をしてくれる人がいませんので、よかったらご指導ご鞭撻を願いたいのですが、例えば推定、断定だとどうなりますかね?
そう言っていただくと、こちらこそ励まされる思いです。『噛み分けながら…』有難う!
日本は曖昧、fuzzyの国です
余り、的確に言わない特に短歌は。
貴方は座禅をされてるでしょを、言い切ると師家に「お前は本当に知ってるのか」と詰め寄られますよ。
「滋養」は貴方が掴んだ実感から素晴らしい言葉です。
私が今、詠んだ短歌は、
プライドを表すオオカミ一番に手放すわれに誇りなからむ 涼風
「む」が推量です、
自分の事なのに推量かと思われるでしょうが、本当にお前は判っているのかの世界を詠んでいます。
私は短歌を始めて11年生です、
短歌の会に入って楽しく学んでいます。
私も『曖昧』が好きですが、『かな』…というのはけっこう曖昧だと思うのですが?
なにぶん基本をしりませんので今後とも宜しくお願い申し上げます。