拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 間 』・・・

2023年11月25日 | 東洋自分なり研究所

  私の『考えるな、漢字ろ!』・・・で、最重要な漢字は恐らく『間』なのである。

 

  それは、日本語で『人』のことを『人間』・・・と言い表し、また漢字で『人間』と、『間』を使っているところが

  『尋常ではない!』・・・ことであると、私の『直感』としか言いようのない、まさに『考えるな、感じろ!』は三十数年前に私に教えていた。

 

  さっき、Netflixでアメリカ映画『Instant Family』という実話に基づいた、若い夫婦が3人の兄弟の子供たちを養子にする話を観ているうちに

  自分の幼少の頃の事を期せずして『還暦スキャン』してしまったが、私が何故これほど『間』にこだわるのか、その理由がわかった気がしたのだ。

 

  私は生まれてすぐ、実母が病気になって私の面倒を見ることが出来なくなり、詳しい事情は知らないが、父が蒸発してしまったこともあって

  6歳年上の姉は養護院、私は育ての母のもとで暮らすことになった。

  小学校に通うようになると、親権のある実母と姉と三人で暮らすことにはなったが、学校が終わると4,5km離れた育ての母の元に

  もどったりして、二人の母の間を行き来していた時期がその頻度はだんだん減っていったものの、そうした関係が高校まで続いた。

 

  そんな自分の幼少期の事を考えた時、二人の母の『間』に育った自分・・・ということで、この『間』というのは、天が私に与えた

  公案そのものではなかったかと思わずにいられない。

  私という『子』を巡って、ときに二人の母が互いに嫉妬していたことも私は感じていたが、

  私は子供心にも、それについてはこだわらない態度をとり、深く考えることを封印していた。

  そんな私は、大人になって『封印していた事』すら私は忘れていたが、『禅』と出会うことで・・・というより、そうした『間』が公案として

  心の片隅にあったからこそ? 『禅』へと誘われていく運命であったかと思うのだ。

 

  娑婆に生まれてすぐ、二人の母の『間』に対面したが、それが本当に解るためにはそうした『自分』を探究して・・・

  『自ずと分かれ、自ずと分かる』という自分の『間』にまで、腑に(不二)落ちなければならなかったのだ。

 

           

  『合掌』は『仕合せ』を象徴する仕草であるが、それはまた『不二の法門』の象徴でもあり、絶対『間』の大切なことを教えてくれている。

  



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