拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  生命と死命と

2023年11月20日 | 東洋自分なり研究所

  私の姓名の姓は『森』というが、ずーっと昔、ある書籍で『メメント・モリ』なる言葉にであったが、『死を思え・・・』ということで

  『Mori』・・・というラテン語が『死』を意味するとわかって、縁起でもない・・・と思った思い出がある。

              

 

  しかし、今は『森』というものが、『生死』をまるごと育むものである・・・という認識で落着している。

 

  先日(11月15日)ブログに『ブルーアイ・サムライ』というアメリカのアニメについて書いたが、

  そのアニメで最も大切なシーンであったろうと思う、『生死』について、非常に上手い表現で刀鍛冶の師匠が弟子に教える場面があって

  なるほど・・・と思いながらも、自分の考えはちょっと違うなぁ〜と思ったのだ。

             

 

  師:『 わしらが鍛えた刀は、生と死を断ち切る 』

    『 刀は一筋の線だ 』

       『  片方の端には命が、もう片方には死がある』・・・というセリフの場面。

 

  ここでは、『命=生』と言い表されていて、私はちょっと違和感を感じ、この『命』という言葉の使われ方に問題があるように思えた。

  確かに私達はふだん『生命』と言って、『生』も『命』も共に生きている状態を言い表している認識を持っている。 

  しかし、彼が鍛えた刀は、生と死を断ち切るのであって、命を断ち切るというのは言い間違いではないだろうか。

 

  仏が鍛えた『観音』は、生死を断ち切ることで、命を育んでいる・・・と、私は思う。

  『命』という字は、『 一・叩 』(ビッグバン?)でできた場(宇宙)であり、『命・いのち』は『意の智』であり、

  それは何を持っても断ち切ることは出来ないものなのだ。

  



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