『空』の字については、『工夫』によって『風穴』を開ける、だから『空』・・・というイメージは前からあった。
が、昨日思いついたのは、実に『ホール・イン・ワン』だった・・・。
この発想には、もちろん『空くう』の『穴』から来ているが、ゴルフボールを『穴』にいれるには『意識』が必ず必要だ。
そこで問題になるのは、この『平常心是道』の公案の経緯(いきさつ)だ。
趙州(じょうしゅう)「道とは何ですか。」
南泉「平常心是れ道」
趙州「とくに向かおうとするべきでしょうか、その必要はないのでしょうか。」
南泉「要らぬ、向かおうとすればそれから逸れる。」
趙州「しかし、向かわなければ、どうして道を知りえますか。」
南泉「道は知と不知に属さぬ。知識は錯誤であり、不知は虚無である。人が真に疑惑の影だになき道に達すれば太虚のごとしだ。
カラリとして、どこまでも澄みわたっている。向かう向かわぬといった是非など微塵もない。」
趙州は言下に悟ったのである・・・。(鈴木大拙著 禅による生活)より
ゴルファーのように、『穴』にボールを入れる・・・という意識を、強烈な意識を持ち続ける・・・中で、テクニックを磨いて上達する、
しかし、『道』の場合は向かう『意識』が必要だが、その事にとらわれていては駄目だ・・・という事なのだ。
だいたいにして、禅の公案(問答)そのものが、その矛盾に体当たりすることなんだと思う。
ゴルフは一度もやったことなかったけど、半年ほどキャディのバイトをしていた時の写真は、六甲山ゴルフ倶楽部のキャディ寮にて
私が、ホール・イン・ワン・・・したかどうか?・・・
もししたとすれば、数千回か数万回か、数え切れないほどボールひっぱたいた末の『ホール・イン・ワン』であるか、
はたまた、旗竿に当てて弾きだされてしまって、ジャポン!・・・と、古池にハマってしまい
ゴルフ自体がどうでもよくなってしまったか・・・。
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