恐らくどこの禅道場に行っても、どこの宗派のお寺でも『般若心経』は読誦するであろう。
まず、リーダーが般若心経の正式名を唱える『摩訶般若波羅蜜多心経』〜・・・と。
次に来る一節が『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・』と続く。
この『観自在菩薩』という菩薩はじつは家の有名な『観世音菩薩』と同一菩薩で、インドから中国に『般若心経』が
渡った際、まず鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳では『観世音菩薩』になり、後に玄奘三蔵が訳した時『観自在菩薩』となった。
同じ菩薩が『観自在』と『観世音』という二つの呼び名が付けられ、それぞれが機能している意味合いはかなり重要だと思う。
これは馬骨の私見であるが、仏の働きを『慈悲と智慧』と云うとき、慈悲が『観世音』、智慧が『観自在』となって
一人の菩薩が表裏一体の働きをしている…のだと私は理解している。
特に『観音』は、初めは私の禅修行法そのものになり、後に『無の境涯』を支える基盤ともなった。
修行道場では、鐘を鳴らし、板を叩いたりして『音』を合図に行動を起こして、音の持つ役割は大変重要になってくる。
坐禅の開始時、チ〜ンという鐘の音が3度それぞれ空気に溶け込むまでの長さを保つ…それが調(心、息、心)の芯軸に
なるように聞いていると、その後の数息観も無数息観も自然に『観音』…をするという感覚になってくる。
『観音』は雑念を断つ過程を助け、いつか安寧を人にもたらす。
これが観音菩薩の救済であり、『観音』に救われる者はそこで初めて『観自在』を得るのだと思う。
『観音』する 弥勒菩薩
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます