『人間』という言葉・・・もともと仏教用語らしいが、江戸期以前は『世間』という意味合いで使われていて、
江戸期以降、現在のように『人』を意味し、『世間』というニアンスは薄れた。
人間は生まれてから死ぬまでの間、一人では何も出来ない生き物で、社会の影響のもとに生活を営む生き物である…
そういった意味で『世間を渡る人』から『人間』となった、と考えるのが普通であり、我々はそこに疑義を挟まないで済ましている。
しかし、もともと『人間』という言葉が仏教用語であったなら、こんな表面的な解釈で満足していて良いはずはない・・・と私、馬骨は疑義を挟んだ。
そもそも『時間、空間、人間』…と順に並べた時、『カン、カン、ゲン』・・・と『間』の字を発音させるところに私は尋常ならぬモノを感じぜずにはいられない。
時間、空間、に逐一制限される人間に『人としての次元』・・・を思わせる次元の『ゲン』を発音させる『間』を『人』にわざわざ付けた祖先の真意は??
『世間』を渡る前に『人間』の『間』について解決すべき根源的問題がそこに秘められている…と考えた時、
ソウシャルディスタンスとしての『世間』を前にして『マスク』を強要されている状況にある『自分とは一体何なのか?』
『マスク』というのは『一黙』の象徴でしかない・・・普段の馬鹿話の一切を止める象徴でしかない・・・という思いを馳せた時
何百年に一回、有るかないかのこの好機は、その『人間』の『間』が秘めているモノについて、それこそ『黙考』すべき時ではないだろうか。
東洋の『マスク』が全世界にグローバル化した、その仏教的意義について、
『今』それを考えることの必然性は『A Iの時代』を迎える人類…と無関係ではないような気がする。
人間の『間』には自分自身とのコミュニケーション(悟り)、社会とのコミュニケーション(世間)
その二つの『間』を観自在する次元(間)がある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます