つい先日『心技体』について考察してみた。 2024年3月20日のブログ記事〜心技体の『道』
ただいつもの如く、舌足らずというか、我が愚脳がテーマに追いついてくるのが遅く、これかなぁ…という一つの結論に時間を要した。
私がこのブログに書く内容は、ほぼ実体験を基とし、それに若干の創造的妄想を加えた『自分なり・・・』見解であることは
これまで私のブログを読んでくださっている方は理解して下さっているであろう(か?)。
と、あえて念を押したのは、『観自在』といいながらあまりにも様々な規範を無視した、じつに『適当』なご都合主義的『御託(ごたく)』に
終始している・・・感が私自身にもあり、それこそ『万葉仮名』以来の滅茶ぶりの意伝子せいではなかろうか・・・とは思っているところだ。
ところで、『坐禅』をしたことのある人は・・・このブログを読んでいる方々で何人ぐらいいるであろうか?
『道』には、『心技体』というものがあると定義した場合、いったい『坐禅』の場合どのあたりが『技』といえるのか?
老師と呼ばれる、禅マスターからすれば、座相を一瞥するだけで、その人の禅の境涯の深淺を喝破するであろうことは言を待たないが
坐している本人が腑に落ちる状態になるまで、鍛え上げるべき『技』とは?
坐禅の初心者に対してよく言われるのが『調身・調息・調心』で、確かにこの当たりに狙い定めるべき目標がありそうで
臨済宗では、それを実現する方法として『数息観』を教える。吐く息を『ヒト〜ッ』と数えながらなるべく長息を心がけ腹の当たりから
吐くような感じで・・・というような説明を受けた気がする。
これを数年実行していた私は、ある日 村木弘昌著『釈尊の呼吸法』『丹田呼吸健康法』を読み、この本を参考に『丹田呼吸法』を試みた。
この呼吸法は、吐く時に下腹部(丹田)を膨らます感じで出息し、吸息も速やかに下腹部で呼吸するので、絶えず下腹部に腹圧がかかっている
状態を保つのである。それは常に意識した状態でないと出来ない、最初は不自然な呼吸法であるが、『数息観』と同時に『丹田』に意識を向けることは
当然、『雑念』を『坐断する力』ともなったわけで、『調身・調息・調心』を統一する核としの『丹田』はまた、身体の自然治癒力を高めるうえでも重要な役割を
果たす『一石二鳥』ならぬ『一丹四調』・・・ぐらい重要事項であったと私は考える。
そしてこの『丹田呼吸』というのは、動いている状態で意識を働かすのは非常に難しく、その点、『坐禅』という不動で、長時間意識を働かす鍛錬が可能な
『修行』という形を取った時、その深淵で微妙な『技』は道教のいう不老不死の『丹薬』、仏道の『開悟の秘薬』として心身の次元を高める『薬』として重宝された。(馬骨論)
写真は私の家にある『薬師如来』像。この『薬』の深淵なことを思うと、『坐禅修行』の有難い事にあらためて気が付く。
ふだん無意識で行っている呼吸を、『丹田呼吸』という意識呼吸を習得することで心身に良い影響を及ぼし『薬』と化す『坐禅』は
老齢化が進む中、医療費節約の点からしても今一度、検討する価値が大いにあると思う。
坐禅における『技=丹田呼吸』こそは、新時代を担ういろいろな意味で、偉大な『薬味』となろう。
当時、寺では『丹田呼吸』を強調する指導者はいなかったが、釈尊の時代に様々な苦行をやめ、『大安般守意経(アナパーサチ)』という丹田呼吸法で
悟りに至った経緯を記したお経の存在は、『坐禅』を行とする禅宗においてもっと研究されるべきでは、と思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます