隠居: 熊さん、あんたなぁ… そろそろ悟らなあきませんで。ぶらぶら、ぶらぶら、しょうもないことばっかりしおって
熊 : ご隠居さん、お言葉ですがね… 坊さんがゴッツい修行なさって、やっと悟れるかどうかでっせ。そりゃぁわたしゃなんかにゃ無理でっせ。
と、言うようなところの『無理』という言葉・・・おもろいなぁ、これも必ず『仏語』であろうか。
それで思い出すのは、円覚寺・居士林でもらった『修養聖典』にある『興禅大燈国師遺誡』の一節・・・
『汝等諸人 この山中に来たって道の為に頭をあつむ 衣食(えじき)の為にすることなかれ 肩あって着ずということなく 口あって食はずということなし
只須らく十二時中 無理会(むりえ)の処に向かって 究め来たり究め去るべし 光陰矢の如し 謹んで雑用心(ぞうようしん)することなかれ 看取せよ 看取せよ・・・』
・・・こんな感じでまだ続くが、この大燈国師遺誡は読んでいて『カッコいい』と読むたびに思ったものであるが、この文中に『無理会』・・・というのがあった。
だいたい、禅寺(臨済宗)で公案(禅問答)を頂いて修行するということは、普通ならば『無理!』と言下に付す処・・・に向かって『無理』を究める場所であった。
その間に、時々『般若心経』なんかを詠んで『色即是空空即是色』などと大声で『空』とか『色』とか叫んでいる・・・という風景は涙ぐましく、また滑稽でもある。
そのうち、『無の理』が『空』であると観じてくる時節をむかえると、『空』の字がそれまでの色界に風『穴』を空けて明るい空(そら)が広がっているのを観る。
その昔、サンスクリット語から仏エスプリを漢字『空』に翻訳した我が祖先は、本当に凄い・・・。
ちなみに『空』の下部『工』は、禅でいうところの『工夫』の『工』で『無意識の意識』という処であろうか。
無理会の処に向かって 究め来たり 究め去るべし
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