

73年前の今日。1945年9月2日,戦艦ミズーリで行なわれた日本の降伏調印式に合わせて,上空を飛行するF4UコルセアとF6Fヘルキャットの編隊。白黒写真のニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。

こちらが元の白黒写真。


73年前の今日。1945年9月2日,戦艦ミズーリの艦上で,日本の降伏文書に署名するコンラッド・ヘルフリッヒ提督。隣にはマッカーサー元帥が立っている。カラーフィルムで撮影された写真。
@zidaiokure_21th
この降伏調印式の場に来るまでに、重光代表らがミズーリ号のタラップをいくつか登ってくるのだが(その模様を撮影した動画がある)、それが実に敗戦国を思わせる。特に、重光は不自由な足を引きずって一行の先頭を登り降りするので、敗戦国の度合いが増す。8月15日以上に、敗戦国であることを印象づける


73年前の今日。1945年8月30日,相模湾に停泊する戦艦「ミズーリ」の艦首。背後に富士山がみえる。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。

『降伏文書に署名した日本政府全権の重光 葵(しげみつ まもる)』
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において整列した正式な降服文章調印のための日本側全権。このとき日本政府を代表して重光 葵(しげみつ まもる)外務大臣が、日本軍(大本営)の代表として梅津美治郎参謀総長が署名している。
この時シルクハットとモーニングで正装した重光葵(しげみつ まもる )が杖をついているのは上海天長節爆破事件で右足を失って義足だったから。
上海天長節(天皇誕生日)爆弾事件とは、第一次上海事変の1932年(昭和7年)4月29日に上海で発生した爆弾テロ事件。韓国臨時政府の金九(キム・グ)の指令でテロを行った爆殺犯人の尹奉吉(ユン・ボンギル)は12月19日金沢刑務所で銃殺刑となったが韓国では独立運動の義士として顕彰されている。

『韓国の憲法では、金九の上海臨時政府が韓国国家の起源だと明記されているが実態は小さなテログループ』
テロリストと呼ばれるか義士と呼ばれるかの違いは紙一重で、180度逆の概念に思われている『右翼と左翼』、『テロリストと義士』の区別ですが、実際の中身は違いが無いか、あってもごく小さい。『テロ=悪』などと単純に言い出したのは、2001年の9・11以後の単細胞のブッシュ大統領からの話であり歴史的に見れば極最近である。

『日本が敗戦を決めたのはソ連軍の参戦を聞いた8月9日、正式に署名してのは9月2日』
国家ファシスト党による一党独裁制を確立したイタリアのベニート・ムッソリーニは、いわゆる『史上最大の作戦』(連合国軍によるフランスのノルマンディー上陸作戦)の1年も前の1943年7月に行われた連合国(アメリカ)軍のシチリア上陸とそれに続くナポリなどイタリア南部侵攻で首相を解任され逮捕されるがドイツ軍に救出される。
その後ムッソリーニはドイツの傀儡国家であるイタリア社会共和国の首相に就任するが、1945年4月28日赤色パルチザンに捕まり愛人とともに処刑され、遺体はガソリンスタンドの屋根に逆さに吊るされる。
ヒトラーは盟友のムッソリーニの結末と同じにならないようソ連赤軍に包囲された首都ベルリンの地下壕で4月30日に愛人エバと自殺。ドイツは5月8日フランスのランスで米英軍に対してドイツ軍作戦部長が、5月9日には首都ベルリンでソ連軍に対してドイツ軍最高司令官が降伏文書に署名して欧州での戦争は終結する。
この為に、米英はドイツ降伏(戦勝)記念日は5月8日だが、ソ連(ロシア)の戦勝記念日は1日違いの5月9日になっている、(ヤルタ会談ではドイツ降伏から3カ月以内の対日参戦をソ連のスターリンがアメリカのルーズベルトに約束していた)ソ連は期日の最終日の6月9日に対日参戦を決行して、日本は即座に御前会議を開催して無条件降伏を決定し、翌日の8月10日にはボツダム宣言受諾を連合国に連絡している。
日本の植民地だった南北朝鮮では『玉音放送』の8月15日は解放記念日で祝日である。日本で『敗戦』の言葉を忌避して8月15日が終戦記念日と曖昧な名称で呼ばれている原因とは、敗戦を決定した日でも、敗戦を連絡した日でも、敗戦を署名した日でも無いからでしょう。
国際基準(グローバルスタンダード)の敗戦記念日は9月2日で間違いない。
ところが、日本人だけの超『内向き』思考なら8月15日の『玉音放送』を『終戦記念日』としても何の問題もないのである。
隠れ敗戦記念日?『東條 英機の処刑記念日』1948年(昭和23年)12月23日(現在の天皇誕生日の祝日)
★注、
日本が第二次世界大戦に参戦した時の戦争指導者(東条英機首相)は敗戦の1年以上も前 の1944年7月22日に(日本の最後の防衛ラインであるサイパン陥落とほぼ同じ時期に)に失脚していて、その後は短期間に小磯國昭首相、鈴木貫太郎首相と二人も首相が変わっている。明らかに日本はアメリカと敗戦準備を陰で行っていたのである。(日本はソ連を仲介役にして終戦を模索云々との話があるが、交渉カードの切り札的なゾルゲを1944年11月7日に処刑して自分で潰していた)
1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣ですが、玉音放送から2日後の 1945年8月17日に終わっているので、9月2日のミズリー号で降伏文章に署名した日本側全権が首相ではなくて格下の外務大臣の重光 葵(しげみつ まもる)になってしまったと思われる
東條英樹はミズーリに乗って調印式に出なかったのですかね?
責任者?ですよね??
想像ですが政治的駆け引きが裏であったのでしょうね。
たとえば
外務大臣が調印して軍人が付き添う
というのは今までと違い文民統制が行なわれていて軍に主導権は弱くなった
とか
陸のトップが参加して海のトップが不参加
というのは日本 海外の どっちかの面子の問題とか
船の上でわざわざ行くというのはどちらが立場が上か というのも印象付けられますし
東条英機元総理が行ったら米軍兵士も感情的になりやすいとか(あるいは日本側が晒し者にしくなかったとか)
管理人様が最後の書かれていることなんてある意味そうで敗戦を終戦 年たの仕方ないかな、と思いますが。
そういう駆け引きも 海外の日本への配慮とかできないというかぶち壊れているのが今の総理なんでしょうか。
ミズーリ号に天皇の姿が見えないのは、もうこの時から国体護持、天皇の戦争責任うやむやプロジェクトつまり、戦争は軍の暴走だったプロジェクトが始まっていた?
で、SF講和の時は昭和天皇は象徴となっておられました
天皇が軍と政府官僚に命令して始めた戦争を終わらせるために、、軍の代表と政府の代表を送って降伏文書に調印させたのです。
これに対しドイツはヒトラーが自殺したため、無政府状態になりました。ドイツ軍は降伏しましたが、ドイツ政府の降伏文書調印がなかったため、この後がややこしくなります。ドイツ分断は無政府状態の国土を連合軍が分割したために起こった悲劇です。このため、戦後の東西ドイツは第三帝国との連続性が全くないと言えます。
日本は大日本帝国の政府が正当な選挙を経て解体され、日本国に引き継がれたと私は考えています。