歴史を動かす感染症と手洗い
パンデミック
ギリシャ語で「すべて」を意味する「パン」と、「人々」を意味する「デモス」を語源に持つ。ある病気が世界中で大規模に流行し、制御不能になった状態を指す
歴史に記述されている世界最初の「パンデミック」ビザンチン帝国(東ローマ帝国)ユスティニアヌス帝の疫病
人類の歴史の中で何度も繰り返した感染症の大流行は、それまでの社会を変革するきっかけにもなりました。新型コロナ感染症もそうした感染症の一つに数えられます。本連載では歴史を動かした感染症の大流行をエピソードとともに紹介し、現代社会に活用できる知識や対策を解説します。
ペスト、宗教改革誘発=濱田篤郎・東京医科大学特任教授
新型コロナウイルスの流行は全世界で700万人近い命を奪いました。これを上回る大きな被害を生じたのが14世紀のペストです。
ペストは元々ネズミなどの間で流行する病気です。病原体のペスト菌はノミが媒介し、ノミが人間を刺すと、ペストを発病します。患者は高熱、リンパ節腫脹(しゅちょう)などを起こし、やがて全身の臓器が障害されます。皮下出血を起こすと皮膚が黒くなるため、黒死病とも呼ばれました。
ペストは過去に3回の世界流行を起こしています。第1回は6世紀に東ローマ帝国を中心に発生し、第2回が14世紀。第3回は19世紀末に中国から拡大しました。(★注、日本の幕末直前にあたる1840~1842年のイギリスとのアヘン戦争に負けた中国「清」帝国弱体化の影響が大きい)
14世紀の流行は人的被害が格段に大きく「本当にペストか」という疑問もありました。しかし、最近、当時の遺体の歯などからペスト菌の遺伝子が検出されました。ではなぜ甚大な被害が生じたのでしょう。
その原因として、最近考えられているのが、欧州上陸後のペストはノミではなくシラミにより、患者から健康な人に直接拡大したという説です。シラミは発疹チフスなどの病原体を患者から直接媒介することが知られており、これなら流行が急拡大する可能性はあります。シラミが繁殖するのは不潔な環境ですが、当時の欧州社会はかなり不潔な環境だったのです。(★注、不潔極まる劣悪な生活環境がパンデミック拡大原因だったことは事実だが、ノミとシラミを厳格に分ける必要性には首を傾げる)
(おわり)
困ったことに結論部分も180度逆さまで、人権も民主主義も無かった奴隷貿易の暗黒の14世紀水準に唐突に、民主主義と科学万能の21世紀から14世紀レベルにテクノロジーが逆戻りしたとの悪夢のタイムトラベルである。2019年12月中国武漢で起きるはずのない奇妙奇天烈摩訶不思議な出来事が唐突に出現した。自然現象ではなく、極めて計画的に武漢発パンデミックをWHOなどが演出した可能性が最も高い。
そしてギリシャのソクラテスやプラトン以来延々と絶えることなく今も続いていて、中世の第4回十字軍なんか異教徒のイスラム教徒から聖地エルサレム解放を理由に兵員を募集して同じキリスト教国の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンチノーブルを陥落され略奪や殺戮を繰り返した、当時のローマ教皇とかベネチア共和国の野蛮な蛮行も全ては「高貴な嘘」
中身が丸々カトリックの海賊行為の十字軍遠征での東ローマ帝国滅亡後。北アフリカや中東からバルカン半島を支配したイスラム教のオスマントルコ帝国当時に、イタリアでベネチアと覇権を争っていたジェノバ共和国がオスマントルコと契約して黒海北岸のクリミア半島に植民都市を建設して行っていたのが現地の人々の拉致と人身売買(奴隷を意味するスレーブslaveはスラブ人が語源)
クリミア半島の風光明媚な海岸のリゾート地にあるスダック「要塞の丘」の7世紀にたてられたジェノバ要塞の威容
致命的に文明が遅れた未開野蛮な西ヨーロッパ諸国には先進地域のイスラム諸国に対して売るものが何も無い。しかし東方でしか手に入らない胡椒などは冬季の食糧貯蔵には欠かせない。背に腹は代えられぬ。仕方がないので黒海北岸(今のウクライナ)で捕まえたキリスト教徒(東方正教)のスラブ系白人奴隷の人身売買を行っていたのです。2023年10月1日 政治 「ホシムクドリ」
欧州全域を襲ったペストのパンデミックと、イタリア・ジェノバ商人の黒海沿岸でのスラブ人白人奴隷の「人間狩り」とは二つで一つのセット。一枚のコインの裏表の関係にあり切り離せない暗黒の欧州キリスト教世界の歴史だった。
絵画『死の勝利』(ピーテル・ブリューゲル、1562年)には、社会に壊滅的な打撃を与えた疫病と戦争がヨーロッパ人の想像力に残した強烈な印象が描き出されている(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM
欧州の歴史が大きく変わった 黒死病の後に起きたこと
1347年のある日、地中海の港に停泊した大型帆船から、歴史上最も危険な疫病の1つが解き放たれた。「黒死病」だ。
積荷や乗客に紛れて上陸したネズミたちには、病原菌をもつノミが付いていた。同じことがヨーロッパじゅうの港で繰り返された結果、1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミック(世界的な大流行)は史上最悪の規模となり、ヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたとされる。
黒死病の正体がアジアとヨーロッパで周期的に流行する腺ペストだったことに、ほとんどの歴史学者が同意している。腺ペストはペスト菌が引き起こす疾患で、6世紀にビザンチン帝国(東ローマ帝国)で大流行して2500万人の命を奪った「ユスティニアヌスの疫病」も同じものだった。
猛スピードで広がり、膨大な死者をもたらした
14世紀の黒死病の後も大勢のヨーロッパ人がペストによって命を落とし、1665年の英国ロンドンでの流行は特に規模が大きかった。最後となる三度目のパンデミックは19世紀半ばに始まり、20世紀まで続いた。
中世ヨーロッパでは、赤痢、インフルエンザ、麻疹、そして非常に恐れられたハンセン病など、多くの伝染病が流行した。けれども人々の心に最も恐怖を与えたのは黒死病だった。ピーク時の数年間、黒死病は後にも先にもない速さで広がり、膨大な数の死をもたらしたのだ。
黒死病は、生き延びた人々の生活や意識を一変させた。農民も王子も同じように黒死病に倒れたことから、当時の文献には、黒死病の前では身分の差などなんの意味もないという思想が繰り返し登場する。
黒死病の原因についてはいくつもの説が提案されたが、そのほとんどが宗教や迷信を前提にしていた。占星術的な現象が黒死病の原因だとする人々もいたし、火山の噴火や地震などの自然現象により有毒ガスが発生したとする説もあった。科学的真実に最も近かったのは古代ギリシャ医学の「瘴気(しょうき)」に基づく説明だった。瘴気は、腐ってゆく物質から発生するという目に見えない「悪い空気」で、呼吸や接触により体内に取り込んでしまうと病気になるとされた。
ペスト菌の発見
こうした迷信的な説が完全に否定されたのは、三度目のパンデミックが起きたときだった。その頃には研究者は病原体を特定できるようになっていて、1894年に日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンという2人の細菌学者が同時期にペスト菌を発見した。
のちにエルシニア・ペスティスと命名されたこの細菌は、ネズミなどの小型げっ歯類に寄生するノミによって媒介される。ノミの体内で増殖したペスト菌は、ノミが噛みついた際に相手の体内に送り込まれる。通常、ペスト菌はノミとげっ歯類の間を行き来するだけだが、一定の条件下では、ノミの宿主であるげっ歯類を皆殺しにしてしまい、ノミは別の宿主を探さざるをえなくなる。それが人間だ。ペストは動物から人間に伝染する動物由来感染症(ズーノーシス)なのである。
ペストが容易に広がってしまうのは、ネズミが人間の生活に引き付けられるからである。特に、納屋、製粉場、家庭にストックされている食料は、ネズミにとって魅力的だった。
ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。コミュニティーが危険に気づくのはさらに1週間後で、その頃にはもう手遅れだ。ペスト菌は患者のリンパ節に移行し、腫れ上がらせる。患者は嘔吐し、頭痛に苦しみ、高熱によりガタガタと震え、せん妄状態になる。
リンパ節が腫れ上がるペストは「腺ペスト」と呼ばれる。しかし、これはペストの3つの病型のなかの最も一般的なものにすぎない。第2の病型である敗血症性ペストはペスト菌が血液中に入ったもので、皮膚の下に黒い斑点が現れ、おそらく「黒死病(Black Death)」という名前の由来となった。肺ペストでは呼吸器系がおかされ、患者は激しく咳き込むので、飛沫感染しやすい。中世には敗血症性ペストと肺ペストの致死率は100%だったと言われる。
「すぐに逃げろ」が拡散を助長
黒死病がヨーロッパのすみずみまで広がったきっかけは地中海沿岸の港と考えられているが、最初の大流行は黒海沿岸のクリミア半島の港町だった可能性がある。ジェノバの植民都市だったカッファ(現在のフェオドシヤ)だ。カッファは1346年にモンゴル軍に包囲されたが、当時、モンゴル軍の内部では黒死病が広まっていた。
カッファで流行したのは、モンゴル軍が黒死病で死んだ兵士の遺体をカッファの城壁内に投げ込んだためという言い伝えがある。実際には、モンゴル軍の戦列の間をうろちょろするネズミにたかっていたノミが市内にペスト菌を持ち込んだ可能性のほうが高い。市内に疫病が入ったことに気づいたジェノバの商人たちは大慌てでイタリアに逃げ帰ったが、一緒に疫病も持ち帰ってしまった。
黒死病がこれほど速く、広大な領域に広まったのはなぜか、歴史学者も科学者も不思議に思っていた。「これだけ速く広まったのは飛沫感染したからであり、主な病型は腺ペストではなく肺ペストだった」と主張する研究者もいる。しかし、肺ペストはむしろゆっくり広がる。患者はすぐ死に至り、多くの人に広めるほど生きられないからだ。
大半の証拠は、黒死病の主な病型は腺ペストであること、ノミだらけのネズミや旅人が船に乗ることで遠くまで広めたことを示している。海上貿易が拡大していったこの時代、食料や日用品は、国から国へと、どんどん長い距離を運ばれるようになっていた。これらと一緒に、ネズミや細菌も1日に38キロのペースで広まっていった。
交易路を介して、最初に感染が広まったのは大きな商業都市だった。そこから近隣の町や村へと放散し、さらに田舎へと広がった。中世の主な巡礼路も黒死病を運び、各地の聖地は、地域内、国内、国家間の伝染の中心地になった。
非常に寒冷で乾燥した地域では拡大はゆっくりになり、ついには足を止めた。おかげでアイスランドとフィンランドはほとんど影響を受けなかった。
当時の町では「すぐに逃げろ、急いで遠くに行け、戻るのはあとにするほどよい」と言われていた。この助言にしたがって避難する余裕がある人々の多くが田舎に逃げたため、悲惨な結果になった。避難した人々もすでに感染していたり、感染者と一緒に旅をしたりしたため、自分たちが助からなかったばかりか、それまで感染者がいなかった遠隔地の村に病気を持ち込むことになってしまったのだ。
各地で社会が崩壊、そして
黒死病の犠牲者は膨大な数に上ったと推定されているが、具体的な数字については論争がある。パンデミック前のヨーロッパの人口は約7500万人だったが、1347年から1351年までの間に激減して5000万人になったと見積もられている。死亡率はもっと高かったと見る研究者もいる。
人口が激減したのは、黒死病に罹患した人々が死亡しただけでなく、畑や家畜や家族の世話をする人がいなくなり、広い範囲で社会が崩壊したからである。中世のパンデミックが終わったあとも小規模な流行は続き、ヨーロッパの人口はなかなか回復しなかった。人口増加が軌道にのってきたのは16世紀頃である。
大災害の影響は生活のあらゆる領域に及んだ。パンデミック後の数十年間は労働力不足により賃金が高騰した。かつての肥沃な農地の多くが牧場になり、村が丸ごと打ち捨てられることもあった。英国だけで1000近い村が消えた。地方から都市に向かって大規模な移住が起きたため、都市は比較的速やかに回復し、商業は活気を取り戻した。田舎に残った農民は遊休地を手に入れ、土地を持つ農民の権力が増し、農村経済が活性化した。
実際、歴史学者たちは、黒死病から新しい機会や創造性や富が生まれ、そこからルネサンスの芸術や文化や概念が開花し、近代ヨーロッパが始まったと主張している。
次ページでも、当時の欧州に暮らした人々が、どうこの疫病と向き合ったのかがうかがえる絵画をご覧いただきたい。
日経ナショナル ジオグラフィック 2020年5月4日付の記事を再構成
手洗い唱えた医師、不遇の生涯 100年後の名誉回復
インフルエンザや新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐ最も効果的な方法の一つは、手を洗うことだ。(たった40年前の1980年代)米疾病対策センター(CDC)は石鹸を使って20秒間手を洗い、流水ですすぐよう推奨しているが、こうしたアドバイスは、いつの時代も常識だったわけではない。19世紀においては、むしろ非常識ですらあった。
1840年代のヨーロッパでは、子どもを産んだばかりの母親が、産褥(さんじょく)熱と呼ばれる病気で亡くなるケースが多かった。最良の医療を受けられた女性たちでさえ、そうだった。ハンガリー人の医師、ゼンメルワイス(センメルヴェイス)・イグナーツはこの問題に関心を持ち、原因の調査に乗り出した。
助産師と医師で死亡率に奇妙な差異
ゼンメルワイスが勤めていたオーストリアのウィーン総合病院で、助産師が赤ちゃんを取り上げたときのほうが、産褥熱での死亡率がはるかに低いことに気が付いた。医師や医学生が担当した場合は母親たちの死亡率が2倍に上ったのだ。
病原菌説のさきがけ
ゼンメルワイスはついに真の原因を発見した。解剖用の死体だ。
病院では午前中、医師たちは医学生の解剖実習を監督していた。そして午後になると、医師と医学生は、産科病棟で患者の診察やお産に対応した。一方で、助産師たちは解剖用の死体と接触する機会はなく、産科病棟でのみ働いていたのだ。
ゼンメルワイスは「死体の微粒子」が医師や学生を通じて母親たちに移されているのではないかとの仮説を立てた。当時は今日とは違い、医師に診察の前に手を洗う習慣はなかった。
病原菌説はまだ提唱され始めたばかりだったため(ルイ・パスツールとジョゼフ・リスターが大きな業績を挙げたのは数十年後のこと)、ゼンメルワイスは問題の物質を「病原菌」ではなく、「腐敗性動物性有機物」と呼んだ。医師との接触で、患者たちにこうした物質が移り、産褥熱で亡くなっているというわけだ。
1847年、ゼンメルワイスはウィーン総合病院で、学生や部下の医師たちに手洗いを義務付けた。このとき、手に残る腐敗臭が完全に消えることもあって、石鹸ではなくさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)の溶液が用いられた。部下たちは自分の手や道具を洗うようになり、医師たちが担当する産科病棟での死亡率は大きく低下した。
1850年の春、ゼンメルワイスは権威あるウィーン医学会で講演し、大勢の医師の前で手洗いの効果を説いた。しかし、彼の説は当時の医学の常識に真っ向から反していた。そのため、医学界から拒絶され、その手法も論理も非難された。
歴史学者たちは、ゼンメルワイスの説が患者の死を医師のせいにしたことも、否定された理由だろうと考えている。結果として、産科病棟での死亡率を大きく低下させたにもかかわらず、ウィーン総合病院は手洗いの義務付けをやめてしまった。
その後の年月は、ゼンメルワイスにとって困難なものだった。失意のうちにウィーンを去った彼は、ハンガリーのペスト(現ブダペスト)で再び産科病棟に勤める。ここでも彼は手洗いを励行し、ウィーンと同じように母親たちの死亡率を劇的に低下させた。しかし、どんなに多くの命を救っても、彼の理論は認められなかった。
ゼンメルワイスは1858年と1860年に手洗いについての論文を書き、その翌年には本を出版した。だが、彼の理論はやはり医学界の主流派には受け入れられなかった。それどころか、彼の本は、産褥熱の原因は別にあるとする医師たちから大きな批判を浴びた。
名誉回復
ゼンメルワイスの死から2年経った1867年、英スコットランド人の外科医ジョゼフ・リスターもまた、感染症の予防策として手や手術道具の消毒を推奨した。彼を批判する者もいないわけではなかったが、1870年代には、手術前に手を洗う習慣を取り入れる医師が増え始めた。
次第に、ゼンメルワイスの功績も認められるようになった。彼の論文は、のちにルイ・パスツールの病原菌説につながり、それが患者の治療法や、病気の原因および感染経路の調査方法を変えていった。
医師がこまめに手を洗うようになったのは1870年代のことだが、日常的な手洗いの重要性が広く知られるようになったのは、それから100年以上も経ってからだ。米国で手洗いに関するガイドラインが制定され、公式に健康管理の一環とされるようになったのは1980年代のことである。
ゼンメルワイスの理論がばかにされた時代から100年以上が経って、ブダペスト医科大学はその名をゼンメルワイス大学と改称した。清潔さが医療を改善すると粘り強く説いたものの、報われなかった彼に敬意を表して。(抜粋)
日経ナショナル ジオグラフィック 2020年3月10日付記事を再構成
日本ではふつうの「手洗い」習慣、近代ヨーロッパ史における"医学的大発見"だった
近年の科学と技術の進歩のおかげで多くの命を救うことが可能になりました。なかでも約200年前に行われた医学的大発見は、その導入以来数えきれないほどの命を救ったばかりか今日まで実践されているという意味で、とくに重要なものだといえるでしょう。
その医学的発見は何でしょう?答えはすばり、「手洗い」
日本では子供のころからの習慣であり、パンデミックを経た現在はさらに手指衛生の意識が高まっています。実際、米国の疾病管理予防センターは「だれもが定期的に手洗いを行えば、年間100万人の死亡を防ぐことができるとした研究者の推論もある」としています。
とくに医師に関しては細菌の拡散を防ぐため、患者の検査や手術を行う際には手を洗浄しているとされいます。しかし欧米各国では、つい最近まで必ずしもこうした習慣が行われてはいなかったようです。
手は洗わずに拭くだけだった
医師の手指衛生が重視されていなかったことは、現在では驚きに値するでしょう。しかし、国連児童基金等からなる組織「Global Handwashing Partnership(「石鹸を使った手洗いのための官民パートナーシップ」)」によれば、1847年以前の欧米では、医師はある患者から次の患者の診察に移る前に手洗いをする代わりに、タオルや雑巾で手を拭いていただけだとされます。
「手洗い」提言者がバカにされる始末
医師が手洗いが必要だと感じていなかったことだけでも驚きですが、さらに信じたいことに、最初に手洗いの習慣を提言した人は「おかしくなったのでは」とバカにされることさえあったのです。
「手洗い」の父、イグナーツ・センメルヴェイス博士
「手洗い」の重要性を発見したのは、ウィーン総合病院に勤めていたユダヤ系ハンガリー人医師のイグナーツ・センメルヴェイス博士でした。
医学を修め博士号を取得したセンメルヴェイス青年は、ウィーン産科病院の助手としてキャリアをスタート。やがて、当時の産科が抱えていた、産褥熱を主な原因とする産婦の死亡問題に熱心に取り組むようになりました。
高い産婦死亡率
歴史専門メディア「History.com」によれば、当時のヨーロッパでは助産婦を介してあるいは自宅分娩をした1,000人の産婦のうち約5人が命を落としていました。
病院分娩における死亡率は10倍以上
ヨーロッパやアメリカの定評のある産院で分娩を行った場合、産婦死亡率はしばしばそのその10倍から20倍となっていました。
センメルヴェイス博士の困惑
病院で分娩を行う産婦がなぜこれほど高い確率で産褥熱で命を落とすのは理解できず、センメルヴェイス博士はみずから原因を突き止めようとしたのです。
しかも産褥熱により産婦が被る苦しみは相当なもので、分娩後に高熱をきたし、下腹部痛や悪露の停滞を起こし、重症になれば敗血症となりやがて死亡に至るという恐ろしい病気でした。こうした症状は分娩から10日以内に起こるとされています。
前述の組織「Global Handwashing Partnership(「石鹸を使った手洗いのための官民パートナーシップ」)」によれば、センメルヴェイス博士の勤務先では、助産師だけが務める産科の方が医師や研修生が担当する産科よりも死亡率がずっと低いことから、博士は関連性の特定を試みていました。
さまざまな仮説をたてても確証が得られなかったセンメルヴェイス博士は、ある日、産婦人科の医師や医学生たちが産院勤務の前日に検死を行っていたことに注目しました。
この偶然に気づいたセンメルヴェイス博士は、検死を行った医師や医学生の手には何らかの「死体粒子」が付着し、それが患者を「汚染」してしまうと考えたのです。
現在、この「死体粒子」とは、産褥熱や壊死性筋膜炎等を引き起こす「A群溶血性レンサ球菌」として特定されています。手術や検死も行う医師と違い、助産婦は分娩しか行わないためこうした「粒子」に被曝することがなかったのです。
当時はまだ細菌の存在が知られていなかったものの、センメルヴェイス博士は解剖台の死臭を取るために使われていた次亜塩素酸カルシウムに着目、それを溶いた水で手を洗浄するという消毒法をウィーン病院で提唱しました。
その結果、センメルヴェイス博士が務める産科病棟における産婦死亡率は大幅に減少し、「手洗い」が産褥熱をおさえることが立証される形になりました。
しかし、残念なことに当時の医学会はセンメルヴェイス博士の画期的な提言を受け入れる準備ができておらず、多くの医師は自身の「手が清潔ではなく」そのために「産婦が死亡した」といわれたと感じ、強い拒絶反応を示しました。
さらに、病気の治療法といえば血液を外に出すことで改善を求める瀉血(しゃけつ)が主流だった当時、センメルヴェイス博士への反感から手洗いをやめる医師さえ出る始末でした。
わずか数年後、クリミア戦争の前線地イタリアのスクタリで負傷兵の看護にあたっていた英国人看護婦フローレンス・ナイチンゲールは、センメルヴェイス博士と同じように衛生の重要性に注目をしていました。
クリミア戦争進行中の19世紀半ば、現在「感染症」とされる病の原因は「瘴気」、つまり「悪い空気」が原因だと考えられていました。ナイチンゲールも細菌に関する知識はなかったものの赴任した野戦病院で衛生維持の大切さを重視し、重要な取り組みとして「手洗い」を導入しました。
さまざまな偏見と対峙しながらもフローレンス・ナイチンゲールは赴任先の病院で衛生習慣を広め、感染症を原因とする負傷兵の死亡率を大幅に下げ、多くの命を救うことに貢献しました。
ウィーンのセンメルヴェイス博士、そしてクリミア戦争下のナイチンゲールがほぼ同時期に提唱した「手洗い」習慣による死亡率低下という快挙は、医学界を納得させるに十分と思われるかもしれません。しかし保守的な医学界はその効用を認めず、「手洗い」は一般的な習慣として定着するには至りませんでした。
前述の組織「Global Handwashing Partnership」によれば、「手洗い」が正しく評価され、広く取り入れられるようになったのは1980年代以降のこと。
1980年代、米国疾病管理予防センターは、手指衛生は感染を防ぐ最良の方法の1つであることを確認。それにより食品由来あるいは医療施設関連の病気が衛生面から社会の注目を浴びることになりました。
以来、「手洗い」習慣は多くの国で認められて導入が進み、多くの命を救ってきました。
「手洗い」は病気の蔓延を防ぐためのきわめて経済的かつ効果的な方法です。すでに実践されている方も多いと思いますが、ぜひ今日から意識的に行ってみましょう。
伝染病たい策は安保対策である。