太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

掛声「ヨイヤ、マカセ」から、「ヨイヤラ、モテケ」へ‥観音寺太鼓台

2021年11月11日 | 掛声

観音寺祭の太鼓台、川渡りの掛声

川幅が約100mの財田川北岸に位置する香川県観音寺市・琴弾八幡宮。秋の大祭(観音寺祭)に奉納する太鼓台は、現在では必ず三架橋を通って御旅所の十王堂に入る。しかし、三架橋が岩国・錦帯橋のような三架の太鼓橋(橋の幅は恐らく2間ほどであったと思われる)であった明治18年(1885)頃までは、大潮の干潮時、財田川を斜めに横切るようにして、川渡りを行っていた。文化年間(1809)の記録に〝近年、ちょうさ太皷が登場〟と初めてうかがえることから、観音寺での太鼓台草創・発展期の約80年弱、今よりも随分と小振りな太鼓台であったとしても、その光景は、三架の太鼓橋を背景にして岸辺に人々が群集して眺める、なかなかの壮観であったことが偲ばれる。

 

三架橋の変遷。左から、江戸時代後期(最初の1枚)から明治18年までの橋・2枚、昭和10年までの橋・2枚(初期は木製欄干、後期は鉄製欄干であった)、昭和10年建造の現在の橋。橋上の太鼓台は、昭和50年代前半と現在。(太鼓台は同一地区のもので、昭和59年に造り替えられた)

ところで、太鼓台が三架橋を渡る時の独特の掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟については、各地の簡素な太鼓台を数多く実見してきた私は、以前から、この掛声に〝各地太鼓台との共通性が潜んでいる〟ことを実感していた。因みにこの掛声については、昭和51(1975)年5月、当時満80歳の明治28年(1895)生まれの記憶力抜群だった観音寺市港町在住の合田翁からの聞き取りでは、「生まれる前のことで、わしには川渡りの経験はないが、実際に川渡りを経験した古い先輩たちから、この掛声は〝太鼓台が川中を担いで歩む時の掛声〟で、〝ここの太鼓台が始めた掛声〟であると聞かされた」と、話していただいた。ただ聞取り取材した当時、同年輩のお年寄りも4人ほど同席していたが、「わしらは、川渡りのことも掛声のことも知らない」という方ばかりであった。この記憶力の違いは、自宅が太鼓台保管場所に近かった翁の、幼児期からの特別な太鼓台との緊密な関係にあったと思われる。現在、観音寺祭に9台出されている太鼓台も、明治初年頃までは恐らく3台であり、明治18年頃にはようやく5台か6台に増えている。勿論規模もかなり小さいものであった。 翁の〝ここの太鼓台が始めた掛声〟のくだりは、太鼓台が初めて登場し、川渡りが始まった時代には3台しか出ていなかったので、割り引いて考察しても、どうしても我田引水的になってしまう。いずれにせよ、この観音寺太鼓台・独特の掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟については、各地太鼓台の掛声と、どのようにつながっているのかを、客観的に考察しておく必要がある。この掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟と一緒に唄われているのは、〝雪の白雪きゃ、ノーエー〟で始まるよく知られた「農兵節」である。この〝ノーエ節・農兵節〟についても、私は観音寺以外でも聞いた記憶がある

各地太鼓台との掛声の共通性について

掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟の、先ず前半部分の〝ヨーイ、ヨォーイ〟について。この〝ヨーイ〟は、「良い、佳い」の意味からの掛声であると思う。「良い」と「佳い」との違いは、良いは全体として〝よい〟の意味があり、佳いには、その上に〝カタチや外観がよく、めでたい〟との意味が加味され、元々は「嘉い」という漢字が用いられていたようだ。各地では太鼓台に限らず、神輿・山車・だんじりなどの重量物運行時には、〝ヨイ、ヨイ〟〝ヨイヤ〟〝ヨイヤ、マカセ〟〝ヨイヤセ〟〝ヨイヤサ〟などの掛声が、時には急調子に、時には力を出し切る唱和で、愛着と寿ぐ意味を込めて広く使われている。

観音寺太鼓台の場合、規模が今よりも随分と小型であったとしても、大潮の干潮時、潮の流れが残る浅瀬や砂地や小石が広がる川床を、大勢で息を合わせて担いで歩を進めなければならなかった。各地太鼓台等の奉納物に見られる急調子の掛声から、緩やかで少し間延びしたような調子の唄うような掛声〝ヨーイ、ヨォーイ〟と転化したものと考えている。

掛声の後半部分〝ヨイヤラ、モテケ〟の意は、奉納する太鼓台を宝物の如く見立てて〝景気よく、氏神に奉納する場所(御旅所)まで持って行け〟との願いや意味が込められているものと思う。川中を歩み進むことや重量物である太鼓台を舁夫全員が協力・合力にて担ぐため、或いは背景の琴弾山の下、川と橋と太鼓台との織り成す一幅の景観を、人々の心に際立つ残影として記憶に留めるためには、悠長な前半の寿ぐ〝ヨーイ、ヨォーイ〟に続く、より具体的な後半部分、即ち奉納物である太鼓台の存在意義を大勢の唱和と力強い太鼓のリズムが不可欠であったのではなかろうか。困難とも言える川中の長い距離を、太鼓台を人々は自分たちの生きざまにに重ね合わせていたのかも知れない。担いで渡り切ること、見事に対岸へ到着することが、地域一丸全ての人々の自己発揮であると、先人たちは意識していたのかも知れない。

各地との掛声比較において、この〝ヨイヤラ、モテケ〟は、別の一面をも持ち合わせている。即ち、川渡りが始まった最初の段階から〝ヨイヤラ、モテケ〟と発せられていたのではなく、その語源は各地でも広く使われている比較的急調子の〝ヨイヤ、マカセ〟にあり、財田川の川渡りの長い時間軸に合わせ〝悠長に、唱和するように、唄う如く、ヨイヤラ、モテケ〟転化したものと考えている。川中という遮るものがない広い視界の中、重量物である太鼓台と太鼓のリズムと唱和する力強い掛声だけが、川岸からの大勢の熱い視線を浴びている、そのような光景がこの〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟には込められてきたように思う。

その掛声が、太鼓台の呼称になっている地方が多くある。

〝チヨウサ〟という掛声が多くの地方で太鼓台を表す語として知られているように、ここで述べた〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟に含まれる掛声が、太鼓台を指し示す語として各地に伝承している例を幾例か紹介する。

よいや」‥掛声〝ヨイヤ〟からの転化。三重県熊野市の蒲団型太鼓台。この太鼓台は蒲団部の拵え方に大きな特徴があり、蒲団型太鼓台の発展過程を追体験するには甚だ貴重な存在の太鼓台である。蒲団型太鼓台・よいやに関しては「蒲団部構造(2)紀伊半島・熊野市〝よいやを参照していただきたい。

「よいまか」‥掛声〝ヨイヤ、マカセ〟からの転化で、〝ヨイ、マカ〟と短く縮めている。宮崎県国富町の平天井型太鼓台。頑丈な構造に特徴があり、太鼓叩きの少年は四本の柱に縛り付けられ、太鼓台は荒々しい。(昭和54年7月撮影)

「よいやせ」「よいやさ」‥掛声〝ヨイヤセ或いはヨイヤサ―〟からの転化。「よいやせ」と呼ぶ愛媛県南予地方では小型・軽量の太鼓台で、主には平天井型の太鼓台を指す。同規模の蒲団型太鼓台は「四つ太鼓」や「やぐら」と呼ぶ。これに対し「よいやさ」から転化した「やっさ」は、主には姫路を中心とする播州地方の豪華な神輿屋根型太鼓台の異名となっている。播州地方の屋台に関しては、明治初年頃のものが兵庫県三日月町に伝承されているが、現在の屋台と比較すると、規模も小さく、装飾の面でも大きな開きがある。

愛媛県南予各地の「よいやせ」

播州地方の神輿屋根型太鼓台「屋台」

愛着を込めて「やっさ」と呼ぶ。2枚目の画像は、明治初年頃に姫路地方から購入したもので、大型化・豪華への発展過程が偲ばれる。絵馬は、明治14年の姫路市の神社のもので、横に並ぶ天部が丸い蒲団型との比較で、やはり当時の屋台規模が想像できる。

(終)

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天草下島・富岡のコッコデショ

2020年08月11日 | 掛声

はじめに

天草下島・苓北町富岡に太鼓台・コッコデショ(地元ではコッコレショとも呼ばれている)が伝承されていると知ったのは昭和50年頃で、もう45年も前のことである。地理的に近い長崎との関連からその存在を知ったわけではない。天草・島原の乱(1637年~1638)で荒廃した400年近くも前、同地方へ西国の各地から大勢の人々が半強制的に移住させられた。その中には天領・小豆島出身の人々も大勢いた。(参考https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000216469 等)若い頃、私は年代や時代背景も無頓着に、「小豆島には太鼓台がたくさんある。小豆島から移り住んだ天草や島原にも小豆島から太鼓台が伝えられたのではないか?」。そんな当てずっぽな予測をして、天草下島の苓北町役場へ問い合わせたものと思う。

ところが不思議なものである。偶然にもそれが的中したのだった。それも予想したとおりの、素朴でいかにも原初的と言うのに相応しい太鼓台であった。(勿論、それは単なる偶然でしかなかった)それ以降、見学のチャンスを何度も伺いながらも逸し続け、2002年3月の初午祭りにようやくコッコデショに会う事ができた。

富岡は江戸期を通じて天草地方統治の中心であった。天草下島の西北部から突き出た半島の先端に富岡城址がある。史跡として整備されている城跡へ登ると、眼下に富岡の町並みと天草灘の大海原が見渡せる。

古い時代、私の郷里・観音寺(西讃岐・丸亀藩)とのつながりとして、天草・島原の乱後に富岡城主となった山崎甲斐守家治は、その後に西讃岐へ転封し三代を丸亀城で統治した。現在の西讃岐地方は“太鼓台の一大宝庫”であるが、「もしかすると、富岡コッコデショとは歴史の奥深い部分で、意外にも何らかの関連があったのかも知れないぞ!」。小高い石垣の城跡に立って、そんな感慨に浸ったことが懐かしい。

祭りまでの行事

「初午奉納スケジュール」として富岡四丁目で作成した資料を、地元のK・H様からいただいた。それによると、

・2月10日<日籠もり>

・11日<小屋入り>

・24日<櫓組み(道順打ち合わせ、衣類・物品等の注文完了)>

・3月3日<布団針(婦人部)、がぶり初め(青壮年部)、総合練習始め(以降毎日練習17:30~)>

・10日<ご案内状配布>

・13日、14日<全員練習>

・15日<練習総仕上げ>

・16日<総合準備>

・17日<コッコデショ奉納>

・18日<反省会>

3月の初午祭り奉納本番までの2カ月近くに亘り、念入りなスケジュールをこなされている。昔は毎年奉納していたと聞いたが、現在ではコッコデショに限らず各町内の奉納が毎年ではなく、3年に一度(かってはそれも中止することがままあった)に変更されたのも、このスケジュール表を見ればうなづける。コッコデショを出すためには、経費もさることながら、大勢の人員の確保と長期間にわたる練習が不可欠で、何よりも地域総ぐるみの団結がなければ、本番奉納が完遂できないのだ。 

コッコデショの由来(いずれも出典・確証不十分なるも、参考として紹介する)

(1)江戸末期、天草・富岡の漁師が遭難している堺商人の船を救助して、長崎まで送り届けた。命が助かった感謝とそのお礼を兼ねて、商売の縁起直しと繁栄を祈念して、漁師を集めてパアーッと賑やかに踊りを奉納した際、「これはいけるぞ」とコッコデショを伝授してもらって帰ったのが、富岡コッコデショの始まり。

(2)長崎・樺島町コッコデショからの伝播で、当時は長崎のものより勇壮な振舞いに全町民が血を沸かせていた、と伝わる。

他地方との共通点

・乗り子の背中に祝儀の御花・祝い袋を飾りたてる風習は、堺市・開口神社の太鼓台でも同様な形態で伝承されている。(参考 https://ameblo.jp/keesukejp0926/entry-12492355300.html

・乗り子の怪我防止のため、振り落とされないように高欄に縛りつけている。また、高欄部分を飾り布でぐるりと巡らすのも各地には多い。この部分が、豪華な太鼓台地方の高欄掛・高欄幕・掛蒲団など様々な刺繍ものに発展していくのだろうか。

・太鼓周りの、乗り子の足置きのロープを「止まり木」として備えているのは、四本柱型太鼓台・広島県安浦町のだんじりと同じであった。

上2枚が富岡コッコデショ、下2枚は広島県安浦町三津口のだんじり。足の指でロープを挟み、バランスを取っている。

掛声・運行の様子

・担ぎ始めは運行責任者の「アー、ヨイヨイヨイ」で始まり、乗り子がすぐさま「アー、ヨイヨイヨイ」と応答する。

・コッコデショを担いで歩行する時は、乗り子と采振り・舁夫とが「アー、ヨイヨイヨイ」と、交互に掛け合いながら進む。

・放り上げをする場所が近づくと、運行責任者・舁夫が「アー、サーキニセー」(前進指示)、乗り子が「アー、ヨイヨイ」と答え、太鼓台は前進する。

・やがて運行責任者が「アー、アートニセー」と発すると、太鼓台は前進を止め後退し、放り上げする場所で立ち止まり状態になる。乗り子は「アー、ヨイヨイヨイ」と合いの手。掛声は2~3回繰り返す。

・太鼓台が舁夫の腰の位置まで下げられると、乗り子は「シャーント、トメタヨナー」と確認の掛声。舁夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、放り上げの弾みをつける動作に入る。

・そして乗り子の発する「ヤー、コッコレショ、コッコレショー、ヤー」の掛声もろとも太鼓台は頭上高く放り上げられる。

・放り上げた舁夫は、柏手を打ち、落下してきた舁棒を両手で受け止め、差上げたままの状態となる。舁夫・采振り・乗り子が「ヨイ、ヨイ」と一斉に発声する。この時、乗り子の太鼓ブチはカチカチと打ち鳴らされ、顔の上方で交叉する。(このような乗り子の所作も、各地ではよく見られる)

・すかさず、乗り子は「ヤー、コッコレショー、トナー」と見栄を切るような掛声を発する。

・舁夫は「ヨイヤセー、ヨイヤセー」と応じ、これで一連の所作は終了する。

感じたこと

長崎では大きな病院を訪れてコッコデショの担ぎや放り上げを力強く披露していたが、天草でもコッコデショは近くの高齢者ホームや病院を訪れて一連の奉納手順を披露していた。岡山県笠岡市の神島でも、車椅子に乗った大勢の入居者が待ち構えた高齢者ホームの広場で、同様な光景を見たことがある。

苓北町の高齢者ホームでの演技披露の様子。

笠岡市神島のセンダイロク

神島の高齢者ホームでは、待ち構えていた入居者の前で演技を披露していた。

地域の人々からこぞって愛されている太鼓台は私たちの宝物である。これからますます縮小化が余儀なくされる地域社会の中では、実に光り輝く元気印そのものの存在である。2300万人超の太鼓台文化圏の中で、伝統文化・太鼓台を、私たちはどのように活用できるかを模索して行く必要がある。太鼓台文化を学ぶことを通して、私たちの住む地域や広大な太鼓台文化圏を、もっともっと活性化できるのではないかと感じた。

苓北町富岡の病院の場合、病院の玄関先には看護婦さんや入院患者さんたちが待ち受けていた。一通りの演技が終わりコッコデショが立ち去ろうとした時、今度は三階の窓からお年寄りが身を乗り出すようにして「ウオッー」と言うような叫び声を発したので見上げると、感動と興奮に浸っているのが分かった。同じ階の窓越しに見物していた他の方々は、続いて大きな拍手と流れる涙でアンコールを訴えていた。それを感じ取った運行責任者の方が、再度演技をプレゼントした。

不思議なものである。太鼓台は感動と元気を発する存在なのだ。それを受け止め、感応したい人々が大勢いるのだ。「これからの厳しい社会、太鼓台文化を活かせることで、何かできないか」。心の底から湧き上がってくる熱いものを感じた。厳しさが予想されているこれからの時代、大樹が根を張って広く地面を支えているように、古からの伝統をまとう身近な太鼓台文化も、そこに住む人々の精神的よすがと成り得るのではないか。私たち一人ひとりの最大課題、それは正に「太鼓台文化を究める、太鼓台文化の歴史を学ぶ」ことではなかろうか。

太鼓台同士の比較・検討

長崎くんちの太鼓山・椛島町「コッコデショ」、千本屋台の掛声「コッ-コデショ」に続く「コッコデショ」第3弾として、長崎に近い熊本県天草下島苓北町・富岡稲荷神社初午大祭に出る四丁目の「コッコデショ」を今回紹介した。

長崎くんちの椛島町コッコデショとの関連や比較については、第1弾において画像等を通じて若干紹介した。ここでは補足として、四丁目コッコデショの掛声について一通り述べた。

天草富岡・初午祭に奉納される各町の出し物は、数は少ないがコッコデショをはじめ龍踊り(じゃおどり)や川舟(かわぶね)と言った、長崎くんちの出し物と同じようなものが出ている。(苓北町富岡の経済や伝統文化が昔から地理的にも近い長崎から強く影響を受けていたことが、次のホームページに概略説明がされている。天草・富岡コッコデショの太鼓台文化圏における理解が深まるものと思いますので、ぜひご参考になさってください。(https://imatabi.travelnews.co.jp/west/20reihoku/202003111001593588.html)

そもそも太鼓台だけでなく、各種の祭礼奉納物は奉納する本体だけでなく、奉納時の運行手順・所作・発する掛声などの伝播は、ほとんどそれぞれの地方独自で成り立っていることはまずない。民謡が数珠つなぎ式に各地へ伝搬したように、各地相互に影響を与え合い広まっている。交流拠点であった当時の西日本の湊町を中心に、現人口2300万人の広いエリアで太鼓台文化は享受されている。それぞれの太鼓台の歴史が古い・新しいと言っても、判明している早い地方で西暦1750年代後半の記録、遅い地方でも同1850年代で、その差は100年程度となっている。(初歩的で簡素な小型の太鼓台の登場は西暦1750年よりも早いと思われるが、残念ながらそのことを証明する記録を見つけることができない)同1870年代の明治初年頃にはほぼ現在の分布に近い状況を呈することになったと思われる。太鼓台文化は、伝統文化としては間違いなくかなり後発の文化であり、先行する諸々の伝統文化からその影響を大きく受けていると見なければならない。

1799年・寛政11年初登場(寛政10年初登場とするものもある)の椛島町コッコデショの掛声や奉納の流れ等に関しても、各地の蒲団型太鼓台や長崎くんちの他の(先行登場の)奉納物との関連を比較探求する必要がある。長崎くんち各踊り町の奉納物(コッコデショをはじめ龍踊り・オランダ船・御座船・川船・唐人船・鯨潮吹き・龍船・曳段尻・段尻など)の始期やそれぞれの奉納時の一連の流れ及び掛声等を知り、奉納物相互の装飾などにおける共通点を分析して長崎くんちの全体像を学ぶ必要がある。そして、コッコデショ奉納時の掛声が他のくんち奉納物とは全く様相を異にしているのか、それともかなりの共通点が認められるのかを客観的に見極めなければならない。現在の椛島町コッコデショの掛声は、コッコデショ以外の他の出し物の影響を受けている可能性があるのか、それともコツコデショ独自のものなのか。

椛島町コッコデショに比べ天草富岡四丁目のコッコデショの場合は、諸事長崎との関係が深いことから、元々は同様な形態のものであり、その掛声は「より伝播当時の掛声の古形」を伝えていると思われる。従って、他地方から「長崎へ伝えられた当時の面影がより残っている」と推測できるのではなかろうか。そして、長崎・富岡両地の、太鼓台文化圏他地方との掛声をはじめ太鼓台の形態や運行時の所作等などの比較検討をしていく中で、各地との酷似が相当に見いだせるものと考えている。富岡コッコデショを深く理解することによって、シーボルト『日本』のスケッチ以前の、長崎へ伝えられた椛島町コッコデショ(寛政11年1799)の当時の掛声の古形も垣間見えてくるようにも思う。


かってのコッコデショの舁棒は短い「井桁」、現在は「四本平行」の組み方に変化している。乗り子は3人。

(終)

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旧・新宮町千本の屋台(現・兵庫県たつの市)

2020年08月02日 | 掛声

長崎・椛島(かばしま)町コッコデショが「こっこで、しょー」と発して太鼓山(太鼓台のこと。太鼓打ちの乗子を「太鼓山」と呼ぶこともある)を頭上高く放り上げる様子については、2018長崎くんち・椛島町コッコデショのYouTubeなどで数多く参考して見ることができる。椛島町コッコデショの場合、その意味合いは「ここで、しよう」(太鼓山を、クライマックスの今、この場所・タイミングで放り上げ、立派に奉納しよう!)であった。この掛声「こっこでしょう」に極めて似ている文化圏内の地方は、果たしてあるのだろうか。確認数は少ないが、屋台(太鼓台)舁きに使用されている地方として、標記の千本屋台がある。但し、運行時における掛声「こっこでしょ」の意味合いは全く異なっている。

双方の掛声の酷似や千本屋台の掛声について説明する前に、千本屋台の特徴や太鼓台文化圏における位置づけ・存在感などについて、2001年3月に旧・新宮町から発行された『町史点描・新宮物語』(筆者の寄稿文)で振り返ってみたい。

①千本屋台=「太鼓台-分岐・発展へ(4)」で紹介した画像

②小宅神社の絵馬(おやけ神社、たつの市、部分。明治期?年代不詳)-上の2台の神輿屋根型屋台と一緒に描かれた丸天井の蒲団型と思われる屋台。

③林田八幡神社の絵馬(明治14年1881)=「各地の絵画史料に描かれた太鼓台」(2019.4付)の画像

町史点描・新宮物語』では、①蒲団天部に丸い膨らみ構造があること。その内部構造を現地取材し、同様構造を持つ太鼓台文化圏内の他地方の太鼓台等についてもその関連を述べている。②荒々しい「エンヤサー」と呼ばれる担ぎ方について、西日本で普遍的に船のことを言う「エンヤ」(瀬戸内では大型の船・小型の舟を意味する)との関連を推論している。また、③千本屋台の来歴については近隣地区から大正期に伝えられたことから、担ぎの所作や運行の様子等の広がりが千本屋台のみに特化したものでないことが伺えると思う。

※蒲団型の太鼓台は各種太鼓台の中でも分布の数も多く、小型・簡素なものから大型・豪華なものまで種類も多い。太鼓台発展の歴史は、蒲団型の太鼓台が大型・豪華に発展していくことと密接な関連性があると確信している。このため、「太鼓台‥発生から、分岐・発展へ(1~5)」(2019.3~4)にて具体的な形態や発展の様子を画像付きで詳報している。今後的にも、現行の蒲団型太鼓台のスタンダード形態である「蒲団枠型」への変化・発展過程を更に探求していきたいと考えている。なお蒲団部構造に興味ある方は、「太鼓台の共通理解を深める・蒲団構造に関する一考察」として、既刊『地歌舞伎衣装と太鼓台文化』(2015.3.31)72-107Pにおいて詳しく論及しているのでご参考いただけるものと考えている。

平成10年(1998)の旧・新宮町での見学当時、私の探求点は長崎コッコデショとの掛声の酷似点よりも、蒲団型太鼓台の蒲団部構造及び太鼓台と船・舟(私の地元では船のことを〝エンヤ〟と称すとの関係について理解を深めたかった。そのため、その後の『町史点描・新宮物語』では、千本屋台の掛声の詳細については触れることはなかった。(参考/長崎コッコデショの見学=1990.10、千本屋台の見学=1998.10、『町史点描・新宮物語』寄稿=2001.3)

今回改めて千本屋台の運行時における掛声を以下に示し、長崎コッコデショとの関連や酷似点を探ってみたい。

(指揮者)コッーコデショ  (舁夫)ソコジャイ

       コッ-コデショ       ソコジャイ‥舁棒から肩を抜く

                   コッコデ、コッコデ、ヨイトセ‥屋台を下して地面に据える。

掛声「コッコデショ」に関しては、長崎が奉納のクライマックスである放り上げ時の勇壮な掛声であるのに対し、千本では奉納一段落時の鎮めの場所決めの掛声であった。同じ文言であるにも関わらず、方や太鼓台の呼称にまでなった長崎に対し、千本では運行時の最後の地味な掛声として存在している。

千本屋台の神社奉納時の一連の掛声としては以下のものが確認された。

 サーシマショ‥舁き始めの掛声。一気に頭上高く屋台を差し上げる。

 エンヤサ、エンヤサ‥台足を地面に下さず、大波に翻弄されるように、屋台をシ-ソ-のように大きく揺さぶる。

 サーシマショ‥再度差し上げる

 マワセ‥台足に取り付いた舁夫は肩に入れて台舁きをする。他の舁夫は、力一杯舁棒を回転さす。

なお、神社拝殿で拝礼を済ませた屋台は、近くの奉納場所まで一気に走る。その場所で「サ-シマショ」「エンヤサ」「サ-シマショ」「マワセ」の順で奉納する。そして奉納の終わりに前述の「コッ-コデショ」で屋台を所定の据え場に鎮めていた。

興味深い〝乗子の反り返る所作

興味深いのは乗子の反り返る所作である。当時の取材ノートには「手を交互に斜め上方に振り上げる、或いは両手を広げてのけ反(ぞ)るように後方へ反(そ)り返る」とある。長崎椛島町コッコデショも同様な所作をしている。千本に近い兵庫県下の屋台乗子の所作にも同様な反り返りがごく一般的に見られる。またこれまでに見学した太鼓台文化圏各地でも、同様な所作を数多く見ている。太鼓台が伝播していく過程で、掛声や所作が太鼓台と一緒に伝えられたことが偲ばれる一例だと考えている。

この小論の終わりに、最も簡素・素朴な形態の太鼓台を紹介したい。勿論紹介する太鼓台は、本論の千本屋台や長崎コッコデショとも随所に関連が偲ばれる太鼓台である。(各地の太鼓台は船をなぞらえた存在で、そのため荒々しい担ぎ方もするし、乗子の反り返り所作等も知らず知らずの内に太鼓台と共に伝えられている)

島根県隠岐の島「旧・西郷町宇屋のだんじり(舞)‥2002.7.28見学

上から、御崎神社境内での左右に振る荒々しい奉納。だんじりの形状は江戸期の大井川・輦台風で、画面左にはこのだんじりの台が見える。次は、乗子が太鼓を叩いた後に2本の太鼓ブチを揃え、左右の斜め後方へ振り上げる(反り返り)所作をしているところ。勿論、事故防止のため乗子は勾欄部に縛り付けられている。下は、西郷港で一休止のだんじり。この舁棒1本に8人ずつ計16人が取り掛かる。他に音頭取りが1人、だんじりの運行を取り仕切る。

(終)

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掛声「こっこでしょ!」の深読み

2020年06月25日 | 掛声

長崎県下の蒲団型太鼓台の呼称「コッコデショ」は、奉納時のクライマックスである太鼓山(太鼓台のこと)を高々と放り上げる際、指揮者・舁夫・乗子等の運行に携わる全ての人々が唱和する掛声「こっこでしょ」からの命名であるのは論を待たない。この掛声の意味合いはどのようなことであり、長崎県下の太鼓台だけに共通する掛声なのだろうか、或いは他地方の太鼓台にも長崎県下と同様の掛声があるのだろうか。本稿では、掛声「ここでしょ!」にまつわる西日本各地間の関連に関する謎解きをしてみたい。まずは本場‣長崎の椛島町-かばしままち・コッコデショ。

数あるコッコデショの中でも、7年毎に長崎市諏訪神社へ奉納される長崎くんちの椛島町コッコデショが特に代表的で有名である。(現在の長崎くんちに奉納される担ぐ形の奉納物は、椛島町コッコデショ、上町-うわまち・コッコデショ、銀屋町-ぎんやまち・鯱太鼓-しゃちだいこ-が出ている)県内では長崎市をはじめ諫早市・大村市などの周辺各地にも分布し、市民の絶大な支持や好感・パワーを得る存在として大変な人気を博している。中でも樺島町コツコデショは、地元のテレビ放送(「太鼓山の夏」)や全国テレビ(ダイドウドリンコ「日本の祭り」)などで、太鼓台文化圏ではここだけではないかと思われる舁夫の公募をはじめ、長期間の練習の様子や太鼓台運行に関わる人々の並々ならぬ熱い思いが克明に紹介されていたことや、既にシーボルトの時代に当時のスケッチ(銅版画に写している)が遺されていて、歴史的にも確かな存在であること等も手伝い、大型で絢爛豪華に発達した太鼓台の多い四国や近畿圏などとは異なり、広い太鼓台文化圏の中でも、最も見事な奉納担ぎを行なう太鼓台として、磐石の地位を保持している。

樺島町コッコデショの奉納開始年代については諸説あるようだが、Webに発信されている膨大な『長崎年表』や長崎市の資料等によれば、寛政11年(1799)のこととされている。(寛政10年とする説もある。寛永11年・西暦1634年に始まったと一部にはあるが、これは長崎くんちの始まり年であり、コッコデショの登場とするには甚だ早過ぎる)

また、1832年に刊行された有名なシーボルト編纂の『日本』には、文政10年(1827)想定の長崎くんちにおける椛島町コッコデショの諏訪神社・社頭での奉納と見られるスケッチ画[出島絵師・川原登与助(慶賀)画 /上図は、当時の外国人職人が慶賀の絵を参考にした印刷用の銅版画であるとのこと。実際の絵画は色彩豊かな実写的な手書きであったと考えられていて、長崎の研究家の間では、その所在を捜査していると教示いただいた。慶賀筆になる当時の〝実画〟が発見されたら、更に正確な古の各地比較ができると思うのだが‥]が掲載されており、当時の椛島町コツコデショの規模や装飾の概要が分かる。スケッチが描かれた諏訪神社・社頭でシーボルトが直接奉納の様子を実見したかどうかは分からないが、当時の長崎市内に特別の滞在を許されていたシーボルトが、庭先回り(御花を戴くために市内各所を回る)の際に、市内のどこかでコッコデショを見ているのは間違いない。大書『日本』の1㌻一杯にこのスケッチが掲載されていることから、椛島町から出されたコッコデショ(長崎くんちではコッコデショをはじめ、蛇踊り・唐人船など各町から奉納される全ての出し物を、単なる奉納物としての位置づけではなく、より演技性の高い「奉納踊り」と称している)に対し、シーボルトは異国・日本の素晴らしい団結を発揮する伝統文化の代表として、西洋に紹介すべきものと位置付けていたのかも知れない。シーボルト時代のコッコデショ(1827年当時と想定)と現在のコッコデショ(1990年撮影)とを比較すると、蒲団部の枚数(3畳から5畳へ増)や舁棒の数(2本から4本へ増)とそれに伴う舁夫-かきふ-の人数増等、現在のものが明らかに大規模に変化・発展している。

更に、廻船を通じてコッコデショの奉納町・椛島町と関係が深かったと言われる熊本県天草下島の富岡でも、コッコレショ(地元ではこう呼称する)が伝えられている。富岡の古老からは、伝えられた時代には「富岡の方が長崎のコッコデショよりも豪華であった」との言い伝えがある。しかし富岡コッコレショの古形の写真(下の古いポスターからのコピー)や現在奉納されているものとの比較では、シーボルト当時の椛島町コッコデショと比べると、昔も今も富岡コッコレショの方が明らかに小型・簡素と判断できるので、この言い伝えは当てはまらないと思う。

古い形態では、舁棒(かき-)を井型に組んでいる。

さて、椛島町コッコデショの掛声の場合、その特徴は、

①一連の掛声は、沖往く廻船の様子が偲ばれるように、船乗りが用いたと思われる簡便で力強い掛声で繰り返されている。一糸乱れぬ担ぎ手達の合力がコツコデショ奉納の成功に直結するため、繰り返される掛声には、舁夫の彼等が共有できる簡便さと分かり易さ、それに力強さが求められる。また掛声の簡便さは、見物する人々に次のコッコデショの所作を予測させ、その場の観衆もコッコデショの奉納に声援を送り、人と太鼓台とが見事に一体化した興奮と感動の、得も言われぬ空間を創り出す。

②椛島町コッコデショが船乗りによって伝られえたと伝承されていることからも、掛声には、太鼓台分布が極めて多い西日本の各地(主として港町)の太鼓台文化との共通点が多々見受けられる。その共通点を詳細に解明していくことで、太鼓台文化の広がりや太鼓台文化圏の客観的な歴史を学ぶことにつながっていくものと考えている。

③太鼓打ちの乗子(長崎では、コッコデショも太鼓山と称するし、乗子も太鼓山と称することもある)も、舁夫の発する掛声に対し、これまた西日本各地に共通的に伝わる乗子の反り返り所作や間合いの掛声を発し、赤地の長い投頭巾と化粧姿の乗子の可憐さを一層引き立てている。

④コッコデショの語源は、「ここで、しょう」(「この場所で、力を合わせ、見事に奉納しよう」の意味からの略語であると思う)

椛島町コッコデショの奉納手順と一連の掛声については以下のとおりである。

<奉納手順>

①コッコデショの踊り場への乗り込み⇒②神前での整列・挨拶⇒③奉納開始場所へコッコデショを一時下げる⇒④飛ばせ&放り上げ⇒⑤回れ&放り上げ⇒⑥踊場からの退場

以上が奉納概要であるが、勿論一通りの奉納では観衆は済ましてくれない。四方から「モッテコーイ」のアンコールがかかると、④から⑥への所作が3回も4回も繰り返される。

<掛声>

①踊り場への乗り込み

アー、ヨー、 ヤー、 サー(複数回、体勢の準備)

ヤー、ホーランエー、ヨャサーノサー(「ホーランエー、ヨャサーノサー」の繰り返し。コッコデショ=廻船と位置付けられる-は、采(ザイ)振りの少年を舁棒の四方に乗せ、左右に揺れながら入港する。この光景は大変情緒豊かな風情を醸し出している)

②神前での整列・挨拶

指揮者の「シズメー」(鎮め)の合図でコッコデショを据える。

アー、ヨー、 ヤー、 サー(コッコデショを据えて静止する。船の着岸をイメージ)

③奉納開始場所へコッコデショを一時下げる

アー、ヨー、 ヤー、 サー

アー トニー 、セー(舁夫はくるりと方向転換する)

アー、ヨー、 ヤー、 サー(舁夫は再度方向転換し、次の④の所作に移る) 

④飛ばせ&放り上げ

ヤー、トー 、バー、 セー(飛ばせ!でコッコデショを急前進さす)

ヤー、チャーント、 サイタヨナー、ヨヤショ(ちゃんと差し上げた。コッコデショの体勢を整える)

ヤー、コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ(三度目の掛声でコツコデショを高々と放り上げ、片手で受け止める)

ヤー、コッコデショ、ドーナー(どうでしょうか、コッコデショの放り上げは)

⑤回れ&放り上げ

アー、ヨー、 ヤー、 サー(コッコデショを時計回りに90度回転し、すぐに元に直す)

マー、 ワー、 セー、マー、 ワー、 セー(コッコデショを時計回りに急回転する)

ヤー、チャーント、 サイタヨナー、ヨヤショ(④と同じ。コッコデショの体勢を整える)

ヤー、コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ(④と同じ。コツコデショを高々と放り上げ、片手で受け止める)

ヤー、コッコデショ、ドーナー(④と同じ)

⑥踊場からの退場

アー、ヨー、 ヤー、 サー

アー トニー、 セー(舁夫はくるりと方向転換して帰る)

※一回きりの奉納でそのまま退場することはまずないため、③の後半の「アー、ヨー、 ヤー、 サー(舁夫は再度方向転換する)」に戻り、以下④⑤⑥を繰り返す。

※再入場した際に、担ぎながらの舁夫の法被の空中乱舞がある。また、観衆からは再入場を促す「モッテコーイ」のアンコールが鳴り響く。更には奉納を褒めたたえる「ヨイヤー」「椛島町、ヨイヤー」が奉納場面の随所で投げかけられる。

※なお「長崎くんち 椛島町コッコデショ」でWeb検索すれば、実際の諏訪神社での奉納の様子などが詳細に拝見することができる。太鼓台文化に携わる私たちにとって、「太鼓台とは何か、奉納とはどうあるべきか、太鼓台のあるべき理想の姿とはどのようなものか、見事な担ぎを支えた椛島町の長期間の鍛錬とは一体どのようなものなのか」等々、見事な奉納の奥に潜む“太鼓台文化の神髄”が垣間見えてくるように思えて仕方がない。時代を超えて受け継がれている太鼓台文化を、より一層愛着を持って探求していきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=7X-vaH7MiDg   諏訪神社社頭での奉納フルバージョン YouTube必見地元テレビの放送バージョン

次回以降は、椛島町コッコデショの掛声や乗子の所作における類似点を、広い太鼓台文化圏の中から探し出す作業をしたい。

(終)

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太鼓台の掛声について‥初めに

2020年03月31日 | 掛声

これから日数と時間をかけて、各地太鼓台の掛声について縷々述べることとしたい。昭和50年代から取材で訪れた各地の太鼓台運行時の掛声をカセットに録音している。それらを整理・データ化し、今一度聴きなおし、掛声における遠隔の地方同士の関連性を探ろうと試みるつもりである。現今の太鼓台運行の様子ならば、無数に発信されたそれぞれの〝太鼓台運行・ユーチューブ〟で見ることができる。注意して聞き取れば、その折の舁夫や乗子が発する掛声を知ることも可能ではないかと思う。しかし、情報が氾濫する今日的時間軸とは異なり、まだまだ古い名残が色濃かった昭和50年~60年頃の運行の様子を、情報量の少なかった過去の時間軸で体験することも私たちには必要ではないかと考えている。近年の各地で似通った掛声が氾濫している状況とは異なり、恐らく太鼓台それぞれの〝各地独自性が録音されている〟のではないかと期待している。また、ブログ・アップするのに時間のかかることもご容赦いただきたい。

その作業に取組む最初として、それぞれの太鼓台の掛声に密接に関わっている「太鼓台呼称の地域性」を一覧表にしてみた。申すまでもなく、表に(メモ)と表示したように、ここに示した地域や呼称については、太鼓台の全てでは全くない。あくまでも概要であり、目安でしかない。

(終)

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