太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(6-②)能地の「ふとんだんじり」資料集

2020年12月12日 | 研究

◎「能地ふとんだんじり」に関する各種の資料を紹介させていただきますので、ご参考ください(著者の敬称略)

『豊田郡佐江崎村誌』抜粋 (久保田登・編、大正15年6月、復刻版)

それほど分量の多い地誌ではないが、大正15年(1926)の早い時代に著されていて、当時の高齢者からも60~70年程前のことについて種々聞き取り調査をされている。従って、幕末期から明治初期における信頼性の高い能地の地誌的状況が、現在においても十分に推測可能と思われる。復刻版のためか欠け字など不明瞭となっている部分が多少あり残念ではあるが、ふとんだんじりの出目等については最も信頼できる史料だと思う。次項以降に紹介した各氏の論文等も、この佐江崎村誌の内容を補強する立場で書かれているのではないかと推測する。

佐江崎村誌の中から能地「ふとんだんじり」に関連する記述を拾い読みしてみると、次のような何点かの史実が明らかになってくる。 ①ダンジリ(ママ。村誌では一貫してカタカナ書きとなっている)は明らかではないが、伊予の多度津の辺り(57㌻関連。多くの能地出漁者・移住者がいた)から見て帰ったもの。「獅子まわし」(=今の〝獅子太鼓〟の前身で、獅子も存在していた)についてもダンジリと一緒に伝えられたものか。 ②凡そ60年前(逆算すると1866年頃、明治維新前後になる)は、中村(二丁目)と東(一丁目)にしかなかった。 ③その4、5年後に大西(四丁目)が伊予から買い帰った。東(三丁目)にもう一つできて4台になった。大西のダンジリが一番立派であった。  ④その当時は、今のように蒲団を重ねたものではなく、屋台の如きもの(形態は担ぐカタチを想像させる表現になっているが、蒲団型でないのは確か)であった。 ⑤今の蒲団型のダンジリは3~40年前(逆算すると1886~1896年頃の明治20年代か。但し、伝播先等についての記載がない)に作ったもので、近頃のものである。(年代的には、大崎下島・大長からの伝来と考える) ⑥龍の如き飾物(四丁目ふとんだんじりの龍・蒲団〆や龍・水引幕のことか。高欄部に回している幕は富士の巻狩図柄で、龍は付いていない)は、近頃(大正15年頃)伊予多度津和田先(伊予多度津=明治の9~21年当時、今の香川県は愛媛県に併合されていたことから、北四国の瀬戸内側を「伊予」と称することもあったか。今の香川県多度津町近隣には〝和田・和田先〟などは見当たらないことから、伊予との境の豊浜町和田や和田浜をさしていると思われる)方面から古物を買ってきたものという。 ⑦太鼓叩きの子どもの掛声についても2~30年前に変化があったと書かれており、今は「ホーレンジャ、ソーレンジャ、世ノ中見事二サシテクレ」であるが、それ以前は「チヨウヤレ、チョウヤレ」「ヨッサ、ヨッサ」「伊勢音頭」にて担いでいたという。(同書の90~91㌻<故事伝説のルの項=上掲>参照。ただし、掛声の変化の時代や伝承元についても、私には疑義があるため後述する) ⑧また同書86㌻の娯楽の項(=上掲)に、「御輿太鼓」「屋台」「獅子舞わし」等が、能地浜地区(現在の一~四丁目)のすぐ近くの各地区にもあったことから、遠隔の他地方の祭りの光景を見聞きしていた家船・親村の浜地区では、「ダンジリ・獅子舞わし」を見習って帰り、周辺各地区に先がけ、いち早く導入したのではないかと思われる。

全般を通して言えることは、今のカタチのふとんだんじりの伝播元や由来についての確たる伝承等が、この佐江崎村誌の記録からは伺えないことである。今日語られている新居浜市の古形であると明らかになったのは、〝昭和52年(1977)9月、大崎下島大長の太鼓台・櫓(やぐら)祭礼見学の際に、大長の古老から聞き取りを行って能地への売却が判明した〟以降である。その翌53年6月、当時の新居浜太鼓台保存会の方々や、東予・西讃地方の太鼓台の装飾刺繍を古くから手掛けられていた観音寺市の縫師〝松里庵・三代目〟髙木一彦氏とご子息の四代目・敏郎氏らと共に、大長と能地で現地調査を行った。そして、両地に遺されている品々を直接鑑定し、大長・能地両地の蒲団型太鼓台が「新居浜で担がれていた太鼓台であり、両地の装飾刺繍が髙木家の技法に非常に似ていた」ことが、初めて特定できたのである。蒲団型に変化した能地のふとんだんじりの来歴が、昭和53年まで明確でなかったのは、このような事情によっている。新居浜から、大長へ。更に大長の1台が、能地四丁目(大西)へ。後に、四丁目の龍の飾り(刺繍)は、香川県豊浜町から伝えられることとなった。能地の人々は、家船を通じて知り得た瀬戸内の太鼓台文化を、元来備わっている広角的な視野を活かし、各地からまんべんなく受け入れていることがよく理解できる。

「能地のふとんだんじり」(昭和37年『文芸三原・第五号』鮓本刀良意、下記『家船民俗資料緊急調査報告書』の、「年中行事」筆者の鮓本虎夫氏と同一人)

末尾に紹介された獅子太鼓の打つ順番とその呼称は、獅子太鼓が「多度津辺」から伝えられたことを確認するための比較資料になる。昭和37年に書かれているため、まだまだ古い形態を伝えていたものと思われる。

「能地の獅子太鼓」(白松克太、年代不詳)

論文の中で、ダンジリの伝播元の地名を「伊予多度津和田見」と書いている。(63㌻上段末尾。冒頭の『豊田郡佐江崎村誌』復刻版では「伊予多度津和田先」と書かれているが、和田見・和田先は共に存在していないため、佐江崎村誌の表記を採用したい)

「浜の祭り行事」(萩 幸朝『三原春秋』1966.5所収)

 

地元の萩幸朝氏が著した上記「浜の祭り行事」には、<①伊予多度津辺からの伝播 、②最初は二丁目(中村)と一丁目(大東)、4~5年後に四丁目(大西)、最後に三丁目(中西)の順ででき、 ③その頃は屋台のようなもので、蒲団を上に重ねたものではなかったと言われている⇒前記の『佐江崎村誌』を引用か。即ち『佐江崎村誌』にも記載されているように、今の蒲団を重ねたカタチ以前の古いだんじりに替わり、現在のふとんだんじりに変遷したことを理解しておく必要がある。ただ、今のふとんだんじりの伝播してきた先については、『佐江崎村誌』同様、何ら触れられていない。

 『家船民俗資料緊急調査報告書』抜粋 (1970 広島県教育委員会・三原市教育委員会)

         

家船の経営形態は、子供を含む夫婦2人乗り組みが基本であることから、総じて小規模である。それには、釣り船形態と引き網形態とがある。釣りが主の場合は使う漁具も少なくて済むことから最も小規模であり船も小型となっており、引き網船の場合は釣り形態に比べると漁具の保管スペースが必要で、船も少し大きくなっている。瀬戸内では、前者が能地の西隣りの二窓、後者が能地と言われている。資料末尾の地図(檀那寺の過去帳を基にした河岡武春氏の作図)で紹介させていただいたように、檀那寺が同じであるこの2地区の枝村・寄留村が、瀬戸内の東西各地に100か所以上とも160か所とも存在していたことが、氏によって明らかにされている。

初期「能地ダンジリ」の伝播に深い関係があると思われる〝伊予多度津辺〟近隣への能地からの移住先・出漁寄留地・分村等は、佐江崎村誌の57㌻冒頭部分にも紹介されているが、『家船民俗資料緊急調査報告書』に所収された河岡氏作成の地域別一覧表にも詳しく記載されている。香川県関係では次のようである。小豆島各地・直島・女木島・塩飽各地・坂出・宇多津・多度津・詫間・荘内半島・観音寺など、東讃岐地方を除く県下各地に広まっている。江戸末期から明治初期にかけて、既にこれらの地域は、かなりの規模に発展した太鼓台文化が花開いていたはずである。しかしながら、この緊急調査報告書においても、能地ダンジリに関する確たる出目は見当たらない。

「能地の浮鯛(浮鯛抄)」(平野多賀司、年代不詳)

 

能地の漁民が瀬戸内各地の漁場へ進出できた〝お墨付き的存在〟として「浮鯛抄」があった。その由来を解説している。

◎「獅子太鼓」について

 

 「ふとんだんじり」と、だんじりの乗り子によって打ち鳴らされる「獅子太鼓」は、能地春祭りの華である。ふとんだんじりの始期・来歴等につていては、佐江崎村誌をはじめその後に著された上記の各種資料等によって、ほぼ明らかになったところである。今のふとんだんじりが、明治の中期頃に至り、それまでの蒲団を積まない屋台のようなカタチの〝担ぐダンジリ〟から発展・変化したこと、大長から購入した大西(四丁目)が最初で、他地区のダンジリも追々と蒲団型に変わったことが理解されてきた。

一方、獅子太鼓の来歴(実際は獅子舞)についても、佐江崎村誌の中で「伊予多度津方面より見て帰りたるものなり」と書かれている。(91㌻冒頭)現在の獅子太鼓は、獅子部分(獅子頭・油単・獅子の遣い手)が欠けていて、子どもの太鼓打ち(ふとんだんじりの乗り子が務める)・若者の裏打ち・奉納順を周知する世話役などで構成されている。

獅子太鼓を伝えた現在の香川県は、獅子舞の大変盛んな土地柄である。能地・獅子太鼓の芸順につけられた芸の呼称と同じものや酷似する呼称が、多度津近隣の獅子舞には数多く認められている。(平成元年 高瀬町教育委員会『讃岐の獅子舞』参照)中には長い年月を経て、能地の獅子太鼓には残っているが、讃岐の獅子舞では既に忘れ去られた呼称もあるように思う。古いカタチが遺されて来た能地の獅子太鼓と、多くの獅子舞団体を擁する讃岐の獅子舞との実演比較も、今後的には為されるべきではなかろうか。遠隔の両地にとっては、恐らく過去の歴史を深め合い、将来的な益ある交流を育む良い機会となるのではなかろうか。

ふとんだんじり担ぎの掛声「テンビンジョ、ホーレンジョ、世の中、見事に、サーシテクレ」の「世の中見事に」の部分は、多度津のある香川県中・西讃地方でしか使われていない掛声である。能地ふとんだんじりの伝播に大きく関与する多度津辺・新居浜・大長・豊浜やその周辺地域を含め、私たちの瀬戸内は「太鼓台文化=瀬戸内海」と言われるほど、今も昔も太鼓台文化の隆盛を見ている土地柄である。

しかしそのような土地柄でも、超少子・超高齢化の昂進が現実のものとなっている。中でも瀬戸内の島々では、既に限界集落化して多くの太鼓台が消滅してしまった。本稿では能地ふとんだんじりの歴史解明について詳報したが、そのように歴史が解明される地方は、残念ながら極めて少数派である。願わくば、太鼓台文化を有する全ての各地が、信頼のスクラムを組んで、できる限り公平に、より正確で客観的な情報を積み重ね、「後世に伝え遺せる太鼓台文化」を構築するためには、〝自分たちには今、何が必要か〟を互いがキャッチボールし合うなかで、歴史豊かな太鼓台文化に対する見直しや、文化再考の機運を高めていただきたいと思う。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒲団部構造(6-①)家船(えぶね)の親村・能地の「ふとんだんじり」

2020年12月08日 | 研究

能地(のうじ)について

河岡武春氏作成(『家船民俗資料緊急調査報告書』1970)広島県教育委員会・三原市教育委員会)

広島県三原市幸崎町能地は、瀬戸内海のほぼ中央部の山陽路に位置する。〝能地〟の認知度は民俗学上の「家船」の親村ということに尽きると思う。家船というのは、海外には今もなお存在する「住居兼生業形態」であるが、かっての日本の場合には瀬戸内海と九州の一部に見られた。その特徴は、動力のない時代から広大な海を自由に行き来し、行った先々で小規模の漁業を営み、取った漁獲物を売り或いは食料等と物々交換し、長期の間、船を住み家としていた〝漂泊の漁民〟ということになる。瀬戸内の家船で生きる人々は、進出地においてやがては数多くの寄留村・枝村を成す(「家船」の研究史、山本敏子2016.2『駒澤大学教育学論集第32号』所収、特に119㌻部分参照)のであるが、家族とともに小船に乗り、仲間の船と小さな船団を組み、少なくとも太平洋戦争直後まで瀬戸内海の東西へ進出した出漁形態であった。船は住みかであり同時に生活の糧を得る大切な道具でもあった。昭和30年頃に、私もそのような数隻の船団を郷里・観音寺市の船溜まりで見たことがある。漁船よりは少し大きな船であったと記憶している。いずれにせよ、〝他所者〟であった家船の人々の生業の厳しさは様々な差別との闘いだけにとどまらず、〝板子一枚下は地獄〟といわれるように常に生死と隣り合わせであった。便利に慣れている私たち陸の生活者には想像できない苦労が、ついこの間まで長く続いた。そのような家船の親村・能地に、瀬戸内海の代表的な祭礼文化である「太鼓台・ふとんだんじり」が伝えられている。[※現代でも呉市の豊島(旧・豊田郡豊浜町)では家船が残っていて、その様子がレポートされた映像がある。かっての家船とは異なり、多少近代的な〝家船〟ではあるが‥]

能地の蒲団型太鼓台・ふとんだんじりは、四丁目ふとんだんじり(旧・大西)が最初であると伝えられている。呉市豊町大長(旧・豊田郡豊町)では2台の「櫓」(やぐら=蒲団型太鼓台)による祭礼時の喧嘩が絶えず、地域の融和を図るため、うち1台が能地へ売却されたという。そのことから、現在の能地ふとんだんじりは、愛媛県「新居浜太鼓台の古形である」ことには間違いない。従って、能地ふとんだんじりの始期そのものを、大長から購入してきた明治中・後期に置き、それが能地における「だんじりの始まり」と解釈されて独り歩きしているのである。

実はそうではなく、能地には「ふとんだんじり以前のだんじり(太鼓台)文化があった」ということを、ぜひ理解しておく必要がある。ただ本稿では、明治初期までに出来たと思われる新居浜型太鼓台、即ち能地の四丁目ふとんだんじりを通して、当時の愛媛県東予地方や香川県西讃地方の太鼓台の蒲団部が〝どのような形状をしていたか〟を眺めておきたい。そして、能地ふとんだんじり以前の「能地のだんじり」の歴史解明については、次稿の「蒲団部構造(6-②)能地・資料集」において、各種資料に基づき明らかにしたい。

四丁目ふとんだんじりの蒲団部構造

幸崎町能地春祭のパンフレット(見開き中程の「天保から明治にかけての頃‥」の部分には若干の疑問があり、次稿で明らかにしたい)

ふとんだんじり同士の喧嘩。右は四丁目ふとんだんじり(旧・大西、大崎下島・大長=新居浜型太鼓台の古形)の道具箱の蓋(赤外線写真)で、鋭利な釘などで削られていて墨書きが判明しない。

四丁目ふとんだんじりの蒲団枠。(右は最上段の蒲団枠)外側は竹で作られているが、同時代(幕末から明治初期)の四国・瀬戸内の太鼓台の竹籠製・蒲団枠よりも簡素化されている。伝えられた蒲団枠が壊れたため、新しく簡素に作りなおしたのだろうか。本来、同時代の同じ地方の太鼓台であれば、下写真のような籠編みの蒲団枠になっていたと思われるが‥。

 

左から、2枚は能地と〝兄弟太鼓台〟の大長・櫓(明治初期頃)。 次の2枚は天保5年(1858)製と思われる観音寺市大野原町の旧・田野々太鼓台の唐木と蒲団部(元は同市豊浜町・関谷太鼓台)。 最後は三豊市詫間町・箱浦屋台(太鼓台)の蒲団部。能地ふとんだんじりと同時代の、愛媛県東予地方から香川県西讃地方の蒲団部は、写真のように蒲団部の外縁部分が竹の網代編みを丸めた構造となっている。なお、昭和52年当時の能地ふとんだんじりでは、三丁目だけが5畳の蒲団部を積み、他3町は7畳を積むカタチであった。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする