太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

太鼓台流布と各藩の大坂蔵屋敷について

2020年02月22日 | 随想

「なぜ、太鼓台は西日本以外には広まっていないのだろうか?」

現在、太鼓台の盛んな地方では、既に幕末期には今日的規模に近いものとして存在していたことが、遺されている書籍や奉納絵馬などの絵画史料等から推測が可能である。太鼓台がそれらの規模となる以前は、どのような誕生・発展の過程があったのか―残念ながら、他の伝統文化に比し歴史の浅い太鼓台文化であるにも関わらず、現時点での解明は十分にはできていない。同時に私たちの間では、西日本のみに太鼓台が分布していることが、至極「当り前」的に理解されている。しかしながら私たちは、その根拠を論じたものにまだ殆んど出会っていない。

「江戸は武士階級の人々が多く住み、政治の中心地。大坂は武家は少なく、商業や経済の中心地で天下の台所」と言われてきた。その大坂が高価な太鼓台を西日本の各地へ供給してきたのは間違いない。言わば、高価な文化の販売である。「なぜ、大坂が太鼓台文化の供給地と成り得たのか?」―未だに自問自答が繰り返されている。

大坂を拠点にした諸国への海運の発達が、瀬戸内各地への各種文物を一極集中或いは撹拌さすことにつながった。またそのことによって大坂は、他の伝統文化同様、太鼓台文化を各地へ供給することに結びつけることができた。大きく重量が嵩む太鼓台は、運搬手段がキーワードとなる。(しかし当時も今も、太鼓台は分解して保管・移動するので、必ずしも船だけがその任にあったとは言い切れないが‥。いずれにしても、船は大型貨物である太鼓台の輸送手段には最適であった)また高価な太鼓台を販売することによって、大坂商人の利潤追求は達成される。更に、大工や彫刻・刺繍などに携わる職人や太鼓台を運ぶ回漕業者等を自らの配下に置くことで、利潤は増幅される。大坂商人が、太鼓台文化の分布・発展に大きく関連・寄与したことは明らかであろう。

大坂蔵屋敷のこと

江戸時代の各藩の蔵屋敷は大坂以外にも各地にあったが、単に「蔵屋敷」と言う場合には、ほぼ「大坂の蔵屋敷」を指していた。各藩が自藩の領内以外に設置したものとしては、「蔵屋敷」と「江戸藩邸」がある。「江戸藩邸」の解説も引用する。両者のウィキペディア解説の引用については、大坂の蔵屋敷を理解するために、江戸藩邸とは異なる特権商人の介在が色濃くあったことを知るためである。各藩は、蔵屋敷開設の最初から、特権商人との関係を重視している。次に引用するのは、「大坂蔵屋敷の所有と移転に関するノート(豆谷 浩之氏)」という貴重な研究論文である。更に、当時の各藩大坂蔵屋敷の所在地を知るには、次の大阪市文化財協会・資料の中にある「中之島蔵屋敷跡発掘調査の現地説明会資料(PDF)」中に、以下の地図が添付されている。

私たちの知識の中には、江戸時代の大坂における各藩の蔵屋敷についての客観的な理解というものがほとんどないように思う。江戸の大名屋敷(各藩の江戸藩邸)のことは、映画・テレビの時代劇にはよく出てくるので、かなり理解し易い構図になっているのではなかろうか。屋敷はかなり広大であり、江戸城下の一定の範囲内に住まわされていたこと。各藩は参勤交代や江戸詰めで、領国との二重経済を強いられていたこと。奥方様は一種の幕府の人質として終生江戸住まいであつたこと等々。そのような上っ面だけの理解でも、ある程度の当時の社会構造は想像可能であるように思う。

ところが、大坂の蔵屋敷のことに関しては、私たちはほとんど無知に近い。例えば上述の「大坂蔵屋敷の所有と移転に関するノート(豆谷 浩之氏)」によれば、西日本の諸藩では、小藩を含め殆んどの藩が大坂・中之島付近に蔵屋敷を構えているが、中部地方以東の東日本ではその逆で、大坂蔵屋敷は極端に少なくなっている。単純には言えないが、これなどは太鼓台文化の流布に何らかの影響があったのかも知れない。それに加え、蔵屋敷では藩と大坂商人との繋がりが強いことも縷々指摘されている。推測の域を出ないが、大坂商人の先導で、大坂の太鼓台文化の受け入れに寛容な藩も相当にあったのではないかと想像する。「大坂蔵屋敷-大坂商人-太鼓台文化-各藩・各地」という図式を探究することも、今後的には重要であるのかなと思う。

(終)

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「奥田 久兵衛」について‥前稿『地車請取帳』余話

2020年02月21日 | 研究

兵庫地車(だんじり)研究会がH17.8.30に発刊した『住吉大佐「地車請取帳」と彫刻』については、前稿(特徴的な「足・裏」表現と「四国、大阪、洲本」の桜井縫師について)の、桜井縫師の足跡を追った際に紹介・引用させていただいた。B5判269頁の同書によると、大阪市住吉区住吉町で宮大工として連綿と続いた川崎家に伝えられているのがこの『地車請取帳』であるという。本書によれば、明治19(1886)年9月から大正15(1926)年10月までの、同家製作及び修理の地車等の売買に関する内容や装飾品等の取引業者などの記録が、大福帳式の帳面に記載されているとの由。

本稿タイトルにある「奥田 久兵衛」のことは、明治30年~31年頃に「大阪南区西清水町 佐野屋橋南角 ぬい屋 奥田久兵衛殿」として書かれている。地車(だんじり)や蒲団型太鼓台の幕などの装飾刺繍の専門業者(縫師、縫箔師)であったものと思う。

この「奥田久兵衛」については、私は以前からその存在を知っていた。昭和56(1981)年9月に見学に訪れた広島県倉橋島室尾の太鼓台(だんじりと呼称。室尾には東・西のだんじりがある)の東だんじりの龍の幕裏に、「佐ノ屋橋◇◇町◇ 奥田久兵衛」と墨書されていたのを確認している。またその後、観音寺沖の伊吹島・東部太鼓台の傷みの激しい幕(神功皇后と武内宿禰)にも同様な墨書「◇◇町佐野屋橋南入 商号 橘久 奥田久兵衛 繍」があったのを確認している。

以上は広島県倉橋島室尾のだんじり(激しい喧嘩が見られる。台足の中央につけられた1本の足は、四隅の4本よりも長い)

以上は観音寺市伊吹島東部ちょうさ関連の画像(龍形蒲団〆は旧と現役のもの。粗図面は安政3、4年頃のもの)

当時の倉橋島にも太鼓台が各地区に伝承されていた。現在は定かではないが、少なくとも見学に訪れた1981年頃には、倉橋・室尾(むろお)・海越(かいごし)・尾立(おたち)・鹿老渡(かろうと)に、だんじりがあった。また、本土側の呉市吉浦東町には、倉橋島から買ってきたと伝わる〝ちょうさい〟(太鼓台のこと)が、現在も盛大に奉納されている。私はこの内、倉橋・室尾・海越・鹿老渡・吉浦東町の太鼓台を見学させていただいた。

ここでは、呉市吉浦東町のちょうさいと、倉橋島・鹿老渡のだんじりを紹介する。

吉浦東町のちょうさい(台足の中央1本が他の四隅の台足より長い。太鼓台を地面につけてクルクルと廻すのに好都合)

鹿老渡のだんじり(左右に倒し合いをする。神輿との喧嘩もある。簡素な太鼓台である)

(終)

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