太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団型太鼓台の〝蒲団部誕生〟について考える‥(2)

2022年02月11日 | 研究

前回(1)の末尾〝見直した太鼓台発展想定図〟(下図)では、草創期の蒲団型太鼓台は、「平天井型」の上に「本物の蒲団」を載せるなど、そうは簡単・スムーズに移行したのではないかも知れないと気付き、その状況を整理してみた。そして、1枚の毛布・蒲団状(「1畳蒲団型」と略称)及び1本の鉢巻状(大きなドーナツ状、「1本鉢巻型」と略称)のカタチの太鼓台の存在を確認し、そのカタチを「前期・蒲団型」と仮称して、その形態種別を「平天井型」と「蒲団型」との間に配した。恐らく「蒲団型太鼓台」は、「平天井型」の上に本物の蒲団を積み上げた「本物蒲団型」へとストレートに移行したのではなく、両者の間には〝ルーツ的蒲団型太鼓台〟とも言うべき「1畳蒲団型」や「1本鉢巻型」と呼べるカタチ(前期・蒲団型)が既に存在していたか、或いは新たに積むカタチで誕生したかで、そのカタチを経由して、後に続く「蒲団型の本物蒲団型」・「蒲団型の鉢巻蒲団型」へと変化・発展して行ったのではないかとの推論に至った。

(3)蒲団型・誕生の考察〟に際してのモヤモヤ事情

上記の様に、「前期・蒲団型」を〝ルーツ的蒲団型太鼓台〟と位置づけ、過去ブログの「太鼓台‥分岐・発展へ(1)~5)」において、1畳の蒲団を積んだ型や、1本の鉢巻状を積んだ型の太鼓台の存在を、画像を通して確認した。そこで実見したカタチの薄い布状や鉢巻状(ドーナツ状)のものが、恐らくは今日的な「蒲団型太鼓台」に発展していく以前のカタチではなかったかと推理した。しかしながら、やはり厚みのそれほどない布状や蒲団には見えない鉢巻状のものが、厚みがあり中身の詰まった平らな「蒲団(座具)」に変化・発展してくることへの説明は、容易ではないと感じている。仮に「前期・蒲団型」が、その後の「蒲団型太鼓台」に発展していく以前のカタチであったとしても、毛布状或いは鉢巻状が〝座具の蒲団〟に変わる明確な説明なしでは、私たちが納得できないのは当然である。同様に、中央が円く大きく空いた鉢巻状のカタチにも、〝なぜ、そのようなカタチが誕生したのか〟の納得いく理由が見当たらない。また、太鼓台が後発の伝統文化であることで、太鼓台以外の先行する先輩格の祭礼奉納物からの影響を受けていることも考慮しなければならない。後発の太鼓台文化に、どのような影響を与えているのだろうか。…このように、蒲団型・誕生に関する説得力ある解明については、なかなか思うような結論には到達することができていない。困難を承知した上で、種々分析を試みてみると、私の中では以下の箇条書き(❶~❻)の如く、いくつものモヤモヤ事情が、常に堂々巡りしている現状がある。

❶「前期・蒲団型」と考えられる太鼓台は、〝1畳蒲団型や1本鉢巻型以外にも存在するのだろうか?〟という素朴な疑問がある。存在するならば、それらはどのようなカタチをしているのだろうか。また、今日の蒲団型太鼓台に、どのように繋がって来るのだろうか。

➋そして、それらの「前期・蒲団型」のカタチは、今日の私たちが用いている〝寝具の蒲団〟と考えてよいのだろうか。それとも、〝寝具以外の蒲団〟と呼ぶべきものだろうか。

①太鼓台は後発の文化なので、既に他の祭礼奉納物の山車などに蒲団(蒲団的なものを含む)を採用していたものがあり、後発の太鼓台は、案外それを〝チャッカリ真似し、援用したのでは?〟との見方ができる。従って、先行の祭礼奉納物に採用されているそれぞれの〝蒲団〟は、蒲団型太鼓台誕生以前に存在していた〝蒲団〟である(次項➁乗懸馬などを参照)ことから、大括り的には、「前期・蒲団型」のカタチの誕生や形成に大きな影響を与えたものと考えるべきである。そして、これらの蒲団は〝寝具の蒲団〟(敷蒲団ではなく、大蒲団・上蒲団・掛蒲団)ではなく、〝座具の蒲団〟(円座のように丸いカタチや、座蒲団のように方形)を意識したものであったと考えている。

➁先行した各地の祭礼に登場する馬の背などに積まれている〝蒲団〟は、何を表しているのだろうか。馬の背に積み上げられた蒲団は、井原西鶴の17世紀(1682年)には、『好色一代男』の中の大津宿において、既に同様な蒲団描写(巻五「ねがいの掻餅」の条に、〝乗懸馬〟が出ている。参考のカタチとして、木曾・奈良井宿/鎮(しずめ)神社大祭の〝御神馬をネットから引用させていただく)馬の背に7枚重ねの蒲団を積み、その上に12、3の娘が乗っている。(これは明らかに〝座具の蒲団〟として書かれている)現時点で判明している蒲団型太鼓台の初見記録よりも、百年も前から広く人々の目に触れていたものと思われる。本物の蒲団ではあるが、何枚もの蒲団が重ねて馬の背で運ばれている。

③井原西鶴の17世紀のこの時代には、未だ世の中に〝寝具用としての大蒲団〟は、まず一般には広まってはいなかったので、今日的な寝具の蒲団ではなく〝座具〟が「蒲団」と称されていたと考えられる。(小川光暘氏著書『寝所と寝具の文化史』S59刊 P149~と、森岡貴志氏2006発表論文「蒲団の研究—漢語の蒲団と寝具の蒲団」が参考となる)仏教文化の影響を背景にして、仏事に奉仕する僧侶などが用いた円座などの座具と同様なものが、高貴な神様や依代の座具と意識され、それを「蒲団」と称し、蒲団型太鼓台が登場する以前の他の先行祭礼奉納物に採用され、かなり広く目につく状況ではなかっただろうか。勿論、この場合の座具の「蒲団」は、高価な綿が貴重であった庶民には無縁の存在だから、その中身は藁や蒲などを入れていた。仏事との関連で、〝曲録〟(僧侶が座る椅子を〝きょくろく〟という)に、座具の蒲団を積んだ祭礼奉納物が各地に見られているのは、〝寝具の蒲団が誕生する以前の座具〟の名残であると思う。その場合には、同じ大きさの蒲団(座具の蒲団)の積み重ねであったと考えられる。

     

左より、瀬戸内市牛窓「だんじり」(船のトモに子供が横向きに座り、前方に据えた太鼓を横叩きする) 観音寺市豊浜町「席船」(屋根に蒲団を積む=ちょうさ会館展示) 長崎くんち「御座船」(本古川町。オモテとトモに蒲団を積み、オモテには正装した子供が座っている) 高松市・田村神社「高荷馬」(馬の背に蒲団を積む) 岩手県大船渡市盛町「曲録」(きょくろく=僧侶が座る椅子を曲録というが、ここでは馬の背の振分け荷物の上に重ね蒲団を積んでいる。大船渡市提供。bの木曾・奈良井宿の御神馬関連) 愛知県江南市安良町「一つ物・おでこ様」(馬の背に蒲団を積み、その上に〝椅子=曲録〟と、そこに座す人形を乗せている。おでこ様保存会提供)

④太鼓台に蒲団を何段も積み始めることとなったのは、どのようなアイデアが元となったのだろうか。上記の御船や神馬に蒲団を積む画像のように、先行の祭礼奉納物からの影響を受けて、後発の太鼓台でも、自然発生的に違和感なく蒲団を積むようになったのではなかろうか。

更に身近な、次のよう推理も十分に考えられてよい。蒲団型太鼓台を各地に売ろうとしていた大坂の大手呉服商は、糸店の看板に〝糸巻き〟がモチーフとなっていることを常識として熟知していたはず。(糸店と呉服商とは、当然ながら商売上深い関係がある)これが現在の蒲団型太鼓台(枠蒲団型)のように、何段重ね(巻)にもなっている。(下記画像)ここからのアイデアとして、より豪華に幾段にも重ねられた「鉢巻蒲団型」や「枠蒲団型」が誕生したのではなかろうか。しかし看板は、現在発達している太鼓台の逆台形状ではなく、どちらかと言えば同じカタチ・幅の糸を重ねている。

左は明治35年頃の大坂の糸店とその看板。(国立国会図書館デジタルコレクション 吉崎恒七糸店)右2枚は骨董品としてネットで売られていた糸店の板看板。

⑤以上から推測できることは、今日私たちが言う〝寝具の蒲団〟(敷蒲団ではなく、上に掛ける大蒲団)は、蒲団型太鼓台が登場したと想定している18世紀の前・中期頃には、ほぼ存在していなかった(大蒲団ではなく、まだ夜着の時代)ので、それ以前の祭礼に出されていた〝蒲団〟は、〝寝具の蒲団〟ではなく〝座具の蒲団〟であった。前③項の各画像からも、やはり〝座具の蒲団〟との関連があったと言えるのではなかろうか。草創期の蒲団型太鼓台では、他の先行奉納物を真似て〝座具の蒲団〟を採用したのではないかと結論付けたい。蒲団型の蒲団は、「座具の蒲団が先で、寝具の蒲団は後」の関係が成り立つ。(私の中では、今に至っても、「蒲団型太鼓台の蒲団は、座具の蒲団である」ことに変わりはない)しかしながら、下の➌で述べているように、伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)の「刺車錦御被」(さしぐるまにしきのみふすま)や「箱輿」と、それが〝寝具の蒲団〟(大蒲団)につながる関連があることから、蒲団型の蒲団が、「座具の蒲団」から「寝具の蒲団」へと意味合いを転化させることとなる。折しも西日本では、高価な〝寝具の蒲団〟の存在が、ようやく庶民の知るところとなり、〝神幸の御旅所で神様が寝る時に用いる「寝具の蒲団(大蒲団)を積み、運んでいる」と意識されてくる〟ようになり、併せて蒲団型太鼓台に酷似する「箱輿」の秘紋からは、伊勢神宮・外宮がらみの〝箔〟がつくこととなる。

⑥下表は、寝具の蒲団と四国地方の蒲団型太鼓台との関連を、時代を追って眺めたものである。(「蒲団〆の幅広化について(1)」2021.12.13関連)表下部の〝四国・瀬戸内の蒲団型太鼓台、その他〟では、四国・瀬戸内側各地の記録上の太鼓台初見年を示しているが、大坂・直結の伊吹島太鼓台では、18世紀半ばの導入にまで早まる可能性がある。

この表・中段の「蒲団について」では、製造し易い方形(長方形)の〝寝具の蒲団〟(敷蒲団ではなく、上に掛ける大蒲団をさす)の登場が、東日本と西日本では時代的に150年近くの差があったことを示している。東日本では、西日本よりも遅い時代まで、作るには複雑な寝具の〝夜着〟(袖付き蒲団・掻い巻き蒲団)を用いており、少なくとも幕末期まで大蒲団の登場は無かったとされている。それに対し西日本では、1740年頃を境にして〝夜着から大蒲団〟へ徐々に移行して行ったようだ。西日本の寝具の大蒲団は製造するのに簡単であり、なお且つ、中入れの綿は、東日本の夜着(袖付き蒲団、下画像)よりも大量に用いる。高価な綿の使用量の違い・製品化への容易さで、西日本の大蒲団が、東日本の夜着よりも、売り買いには格段に魅力的な商品であったことがよく理解できる。このことは、後背地の河内・和泉・大和・摂津などに綿作地帯を持つ大坂の大手呉服商にとっては、東へではなく〝西(西日本)へ目を向けた最大要因〟であったと考えられる。

(2024.6.30追加)後段の夜着(よぎ・やぎ・掻巻蒲団)は、愛媛県砥部町の「砥部ふるさとむかし館」に蒐集・展示されているもの。ここには全国的にも最大規模の夜着が常設展示されている。(1枚目は背の模様、2枚目は内側で肉厚な様子が理解できる。3枚目は常設展示の模様) なお実際に寝る際には、前段のように袖を通して用いるのではなく、現在の大蒲団のように肩にかけて用いていた。夜着は、温暖な西日本よりも比較的寒冷地(関東以北)において後の時代まで用いられていたという。

草創期の蒲団型太鼓台に積まれた〝蒲団〟は、上も下も同じ大きさのものであり、当時としては〝座具の蒲団〟であった(逆台形に進化した現在に至るまで、座具の蒲団であることに変わりない)にも変わらず、蒲団型の蒲団が、さも〝寝具の蒲団〟であるかのように、蒲団の意味が座具とは異なって意識されているのには、それなりの理由があってのことだと考えている。

綿花栽培は全国各地に広まり(「江戸時代綿作の分布と立地に関する歴史地理学的考察」浮田典良氏論文)、綿製品が商品経済の主役となるが、各地では高価な寝具の蒲団をはじめとして、その普及が喫緊の課題となる。明治時代後期に外国綿が大量に輸入されるまで、日本各地では、寝具の大蒲団は、一部の富裕層には普及していたと思われるが、庶民層にはまだまだ一般的ではなかったと考えてよい。一足先に夜着から転換していた西日本の大蒲団は、その快適性ゆえに、外国綿の輸入以前から〝寝具の蒲団〟(大蒲団)普及に一役買っていたものと考えられる。伝統文化・太鼓台が〝東日本には存在せず、西日本だけに分布している〟ことの最大理由は、このように、西日本では〝一足先に夜着から転換していた〟ことに尽きるのではないかと考えている。なぜならば、〝太鼓台の発展と、寝具の蒲団(大蒲団)の登場時期が重なっていた〟からである。大坂の呉服商たちは、大きな利益を得るために蒲団型太鼓台を売ることも当然のことではあったが、もう一つ重要な点があったのではないかと想像する。それは、全国的な綿作の発展から発生してくる〝綿製品の大量販売〟という目的の達成である。私は、「綿製品の代表と位置付けた蒲団型太鼓台を、〝綿製品販売強化の広告宣伝塔〟にして、大坂から西日本の津々浦々へ送り出した」のではないかと考えるに至った。

蒲団型太鼓台の蒲団は、〝座具の蒲団である〟と書いた。寝具の蒲団ではない。しかし、蒲団型太鼓台の発展には、〝寝具の蒲団〟が大いに関係している。これまでに述べた「前期・蒲団型」の太鼓台から草創期の蒲団型太鼓台(例として、上下の蒲団の大きさがほぼ同じのカタチのものを紹介した「積み重ねた蒲団が〝上ほど大きくなる〟カタチを、解き明かしたい。‥蒲団部斜め化の考察の(3)を参照」までは、外観的にも〝全くの座具の蒲団〟であるが、それ以降の逆台形に積んだ蒲団型太鼓台では、下記➌の伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)の秘紋「箱輿」との関連から、「寝具の大蒲団」へと〝転化〟する。その最大理由は、蒲団型太鼓台によく似た「箱輿」があしらわれている「刺車錦御被(さしぐるまにしきのみふすま)」は、神様が寝る時の寝具(大蒲団)に通じるからである。

➌そもそも蒲団型太鼓台は、何をモデルとして誕生したのだろうか。その根拠を知りたい。

発展した太鼓台の蒲団部形成(何段にも積み重ねること、逆台形の蒲団を採用したこと)に強く影響を及ぼしたのは、伊勢神宮・外宮で用いられているとされる〝箱輿〟に依るところが大であったのではなかろうか。箱輿というのは、外宮の刺車錦御被(さしぐるまにしきのみふすま=平たく言えば、神様が寝る時の上蒲団のようなもの)に意匠されている門外不出の秘紋であり、神様へ供える神饌等を入れた重箱のようなものであると言う。この箱輿の意匠には、逆台形の〝箱〟を積み重ねている。これが、蒲団型太鼓台の発達した逆台形状の〝蒲団〟に転化し、後々の蒲団型太鼓台の根拠となったと考えられる。

外宮の神様が寝る時に掛けて使う大蒲団、そこにあしらわれている箱輿。これで、諸国の神社へ奉納する蒲団型太鼓台に〝箔〟がつかなければ、絶対におかしい。各神社の御旅所への神幸の際に、蒲団型太鼓台は後発の伝統文化でありながらも、このように伊勢神宮・外宮の〝お墨付き〟とも言うべき秘紋の意匠をまとって(与えられて)世に送り出されたものと思う。蒲団型が各種太鼓台の最上位のランクに駆け上がれたのも、今となれば〝伊勢神宮・外宮の御威光、さもありなん〟と頷くことができる。

ては、秘紋である箱輿の意匠を、誰が情報を入手し、太鼓台を利用して、西日本の各地へ広めたのか。18世紀中頃から、綿入りの大蒲団による〝寝具革命〟と称される生活様式の大変革が、大坂近郊の綿作隆盛を背景に、本格化する。大坂の大手呉服商は、高価な綿入りの蒲団の販路拡大に努め、利益の増大に邁進した。高価ではあるが、清潔で軽く暖かい蒲団は、人々の羨望の的となる。この寝具の蒲団(大蒲団+敷蒲団)を大々的に売り、大きな利益を上げたようとしたのが、大坂の大手の呉服商を頂点として、そこに連なる地方の〝寝具革命の担い手〟の、綿製品の生産・販売に携わる大勢の人々であった。蒲団型太鼓台の販路拡大は、太鼓台を売って利益を上げることも当然あったが、それ以上に重要な目的があったのではないかと考える。それは、高価な〝綿製品を販売するための宣伝広告塔〟としての蒲団型太鼓台の役割であったと思う。

蒲団型太鼓台には、大まかに整理して、同じ大きさの蒲団を重ねているか、逆台形状(上が大きく幅広で、下が小さく逆台形状に見せている)に積み上げているかの二形態があリ、どちらが先に登場したのかが、論及されていない。

①布状(「1畳蒲団型」)の存在根拠については、上述した伊勢神宮・外宮の刺車錦御被(さしぐるまにしきのみふすま≒大蒲団本体)が布状であるため、その関連で一定の理解は可能かと思われる。ここにあしらわれた箱輿では、逆台形状のカタチをしている。しかし、これは蒲団ではなく重箱様の箱がそもそものカタチであった。思えば、須弥山も上に行く程大きい逆台形状をしている。箱輿と須弥山とは関連があるのか無いのか。意匠については「昔の発案者のみぞ知る」ではあるが、このことも今後の宿題である。なお下画像のように、太鼓台そのものを須弥山と捉える見方もある。

➁各地の絵画史料や現在の蒲団型太鼓台でも、同じ大きさの蒲団を重ねているものが多く見られている。(丹後半島の此代「だんじり」、佐田岬半島の川之浜「四つ太鼓」、兵庫県たつの市の千本「屋台」などの〝鉢巻蒲団型太鼓台〟) 蒲団型の登場は、「同じ大きさの蒲団→逆台形状の蒲団」へと推移・発展したものと考えられる。そして、同じ大きさの蒲団は〝座具としての蒲団の名残〟であり、逆台形状の蒲団は、外宮の秘紋「箱輿」を由来とし、即ち最大級の〝箔を纏う、寝具としての蒲団〟からの引用であると言える。

1本の鉢巻状を積む「一本鉢巻型」と、そのカタチを発展させて幾重にも鉢巻を重ねた「鉢巻蒲団型太鼓台」には、どのような関係があり、謎が潜んでいるのだろうか。

1本鉢巻型を含む鉢巻蒲団型太鼓台の登場に関して注目したいのは、〝天円地方説〟(天は円く、地は方形)と言われる古くからの中国伝来の思想である。ネットで〝天円地方説〟を検索すれば、参考となる多くの記述に出会える。例えば、地鎮祭での神聖を示す「四角の縄張り」=〝方形の土地〟、「相撲の土俵」=〝俵の円は天・外周は地の方形〟、「前方後円墳」=〝前は地の方形で、後ろは天の円〟、更に「太鼓台を真上から眺めた状況」は、〝太鼓が天で円、四本柱や櫓部は地で方形〟と当てはまる。このように鉢巻状を積むカタチの太鼓台では、円い輪を天に見立て、〝方形の天井・櫓部の上に天を頂く(天井から神が天下ってくる依り代、着座)〟との発想も、素人考えでは大有りではないかと思う。

私は、載せた輪は、真横から見たときに厚めの1畳の蒲団と同じように見えることや、前述の円い円座などの座具からの変化が、鉢巻が採用されたことの一つの理由であるのかな、とも考えている。そのような意味では、厚手の布状1枚(座具)のみを積む簡素な「1畳蒲団型」のカタチが、〝蒲団型の一番最初〟ではなかったかとも考えられる。

(3/1 追加記述) 2月28日昼のNHKラジオ放送で、落語家の春風亭小朝師匠が「陰・陽」について語られていた。〝世の中は陰と陽で成り立っているが、「マル(〇)が陽で、四角(□)が陰」〟というほどの内容であった。その例えとして、相撲の土俵を挙げられていた。円い土俵と四角の周辺俵がそれだと話されていた。そのように考えれば、四角の障子(天井)に積まれた一本鉢巻型の太鼓台も「陰・陽」を形作っているし、四角の櫓部に円い太鼓だけを積む初期の簡素な太鼓台のカタチも「陰・陽」の組合せから導き出されたのではないかとも思える。今日の太鼓台につながる太鼓台構造を考え出した昔の知識人は、どのような当時の人々にも分かり易い説得力で、草創期の太鼓台を誕生させたのだろうか。そこの部分を更に探究したいと思う。

❻まとめ

蒲団型太鼓台の逆台形状への変化・発展は、これ以上ない〝お伊勢さんがらみの箔〟を太鼓台に取り付けることができ、逆台形状に飾られた蒲団型太鼓台を受け入れた文化圏の人々も、たとえ太鼓台の売買が〝売り手市場の強い商品〟であったかも知れないが、〝ありがたい・神慮に叶う・分かり易い、しかも美しく豪華である〟との納得や合意を得ることができたものと推測する。そして、西日本各地への逆台形状の蒲団を積んだ太鼓台の流布は〝箱輿=蒲団型太鼓台〟と位置付けられ、更にスピードを増し、豪華な装飾化へと突き進んだものと想像される。このように、同じ大きさの蒲団を積み重ねたカタチから逆台形状への変化・発展には、当時の伊勢信仰の日本的広まりを上手く利用した大阪・呉服商人(売り手)側に起因する〝外宮の刺車錦御被・箱輿の最大利用〟があったものと推測している。伊勢神宮や伊勢信仰及びおかげ参り等でネット検束すれば、江戸時代からの御師を介しての庶民の信仰実体がよく理解できる。ここでは愛媛県下の伊勢信仰について(データベース「えひめの記憶」)を介して参考させていただいた。

(終)

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蒲団型太鼓台の〝蒲団部誕生〟について考える‥(1)

2022年02月02日 | 研究

以前の投稿、「積み重ねた蒲団が〝上ほど大きくなる〟カタチを、解き明かしたい。‥蒲団部斜め化の考察」(2021.7.31)の際に、謎解きを先送りにしていた〝蒲団型太鼓台の蒲団部誕生〟について、今回と次回に分けて、蒲団型の誕生や草創期のカタチなどについてできるだけ平易に考察を加え、今日の蒲団型太鼓台がどのような経緯から誕生したか、また如何にして文化圏を代表するカタチと成り得たか等を、皆さんと一緒になって考えてみたい。少し理屈っぽくなるが、お付き合いいただきたいと思う。

1.太鼓台文化圏における〝蒲団型太鼓台の位置づけ〟と「前期・蒲団型太鼓台」(仮称)について。

文化圏の様々なカタチの太鼓台を改めて眺めてみると、上表のように、「蒲団型」と「屋根型」が〝太鼓台発展の上位発展形〟として広まっていることに気づく。(赤地に白抜き文字は豪華・大型に発展した太鼓台)そして、各地に分布する〝各種各様のカタチの太鼓台〟のうち、蒲団型や屋根型以外(それ以前)の太鼓台では、概ね全てで小型・簡素が主流となっていることも事実である。また、現在は発展している蒲団型や屋根型も、かってはそれほど豪華でも大型でもなかったことが、近年の探究からは判明している。各地の古い時代の絵画史料に依らなくとも、例えば、屋根型のうち、最も大きく豪華に発展している播州・姫路地方の明治初期頃の「神輿屋根型太鼓台」(屋台)は、兵庫県揖保郡佐用町三日月地区に伝播し、現役の屋台として現存しているが、下記前段の画像比較でも理解いただけるように、屋根部分もかなりなだらかで、現在の姫路地方の屋台(前2枚)と比べ、全体の大きさも一回り以上小さい。同様な関係が、巨大・豪華な蒲団型太鼓台が密集する香川県中・西部から愛媛県東部地方などでも、売却等の伝播によって、播州地方と同様な状況がうかがえる。(下段2枚の例示画像は、新居浜太鼓台の新旧比較及び明治初期の太鼓台規模の隔地間比較)

蒲団型太鼓台に限定して分布状況やそのカタチを眺めてみると、簡素・小型から豪華・大型まで、西日本の各地に広く分布していることが分かっている。この内、発展の最上位にある香川県中・西部から愛媛県東部では、ほぼ同一形態・同一規模の蒲団型太鼓台(ちょうさ)に昇華された現状となっている。ただ、現在は大型化しているこれらの地方の太鼓台も、上の2枚の比較画像のように、明治前期頃までは、間違いなく高さ3m前後の比較的小型の蒲団型太鼓台であったことが既に分かっている。

当時の太鼓台が小型であった理由については、道路や橋などに狭い・強度が弱いなどの構造的な問題があったことや、太鼓台舁きが地域力を発揮するバロメータであったこと、移動手段の全てが人の肩によって担がれていたこと等にもあったと考えている。このように道路事情が悪かったことや、狭い同一の地域内で、各地区とも威勢よく競い合うことに力を注いでいたことから、当時の太鼓台は現在と比べると、まだ大型化にはつながっていなかったのではなかろうか。

また、大型・豪華太鼓台が密集するこれらの地方では、遅くとも明治前期頃から始まっていたと考えられる太鼓台文化の隆盛を通じ、各地区では、装飾面には微妙な相違点があるものの、太鼓台そのものは〝ほぼ同一形態(単一形態の蒲団型太鼓台)に昇華された〟と私は見ている。四国のこれらの地方の蒲団型太鼓台(ちょうさ)が、豪華・巨大に発展し得たのは、登場年代にそれほど差がないこと、蒲団型一辺倒の同一形態の太鼓台ばかりが身近な祭礼に参加し、そのような状況下で他地区と競い合い、〝少しでも他に勝る優れたカタチのものを持ちたい〟という願望や対抗心が大きかったからだったと思う。もしこの地方に、冒頭の発展想定表に掲げた蒲団型以外のさまざまに分派した太鼓台が流布していたとすれば、他地区とのバランス感覚を発揮し、周りを余り意識せず、それほど他地区の太鼓台と比べることや競争することもなく済んだのかも知れない。そして、大きさや装飾の規模も、比較的旧態に近い小型・簡素を留めていたのではないかとも推測する。

蒲団型太鼓台が、全ての太鼓台の中で、客観的に見て〝どのような位置にあるのか〟という点に関しては、四国の上記地方のほぼ全ての蒲団型では、高さ4m~5m超、重量2.5t~3t超の巨大化したものとなっている。このことから、現状では間違いなく〝蒲団型が、太鼓台文化圏を代表する最も発達したカタチである〟と言うことでほぼ間違いはない。それでは、なぜ蒲団型がさまざまなカタチの中から、文化圏を代表する大型・豪華な規模に発達し得たのだろうか。実は、この問いに関する明確な論及には、残念ながら今日まで見聞きしたことがない。少なくとも私自身は、ささやかながら太鼓台文化の解明に長年携わり、様々な情報をキャッチしてきたつもりだが、その網にかかることは全くなかった。

2.草創期の蒲団型太鼓台(仮称:「前期・蒲団型」)と、そのカタチについて

広大な2,300万人の太鼓台文化圏を、同じ目線や公平的立場で接するするためにも、頭抜けて発展した蒲団型太鼓台の簡素なカタチの過去を知ることは、豪華太鼓台を有する私たちが我田引水とならないためにも、大変に重要な視点であると考えている。その為に、まず取り組まなければならないのは、私たちの蒲団型太鼓台の最も早い時代に登場したと想定されるカタチを、客観的に知ることである。蒲団型がこの文化圏の主流となって広まっていくに際しては、数ある種類の太鼓台の中から蒲団型を選択した受入れ側・地元の〝自主的な意思決定〟は当然あったと思うが、それ以上に、私は〝蒲団型を売らんかなと画策する、何か大きな時代の潮流があったのではないか〟と考えている。その辺りの受け入れ側に起因する要因以外の〝隠された(?)理由〟を、もう少し詳しく探っていくこととする。

豪華に発展した蒲団を積み重ねた太鼓台の供給元とされているのは、かっての大坂であった。これはほぼ間違いのない事実である。5畳蒲団を積む伊吹島の太鼓台は、遅くとも文化2年(1805の拵え直し。私見ではこれより一世代≒約50年前頃には導入されていたと思われる)には、当時としてはかなり大型化した蒲団型太鼓台を、大坂直結で購入している。大坂からの太鼓台伝搬に関しては、売り手側上位(大坂・呉服商)であり、地方の買い手側(太鼓台の購入側)は、大都会・大坂で完成した派手で豪華且つ勇壮な文化を、受動的に受け入れる立場にあったのではないか、と私は考えている。

(1)1畳蒲団型の太鼓台

伊吹島の場合は5畳蒲団の蒲団型であったが、各地の絵画史料などでは3畳重ねのものが数多く確認されている。勿論、現在の各地祭礼にも3畳蒲団の太鼓台はかなり多い。従って、〝蒲団型太鼓台の一番初めは、3畳の蒲団型なのか〟と言うと、そうではない。現在の蒲団型太鼓台の場合、一例として、1畳の蒲団を積む明石市・和坂(かにがさか)太鼓台=2021.12刊『企画展 明石の布団太鼓台』より転載)がある。1畳積みの蒲団型とはいえ、和坂太鼓台の場合、蒲団の厚みは一般的な蒲団型の3倍ほどもある。

明石・和坂太鼓台の1畳積の蒲団型を引き合いに出すまでもなく、毛布状の1枚蒲団(天井を覆う厚手の布状のもの)を積んだカタチであれば、各地でも散見されている。(下記に例示)私は、これら厚手の布状のカタチが、〝複数畳の蒲団を積み重ねる太鼓台の以前に存在していた〟のではないかと考えている。これらは単に、日除けや雨除けの〝屋根〟に相当するものかも知れないし、少し高尚じみて〝飾り天井〟として採用されたものかも知れない。しかしながら、これらの厚手の飾りが、後に1畳や複数畳の蒲団に変化・発展していくことを妨げるものではない。複数畳の蒲団を積み重ねた以前の蒲団型太鼓台のカタチは、恐らく毛布状・厚手の布状を1枚積んだ下記各地のようではなかっただろうか。このような1枚の飾り布を積む太鼓台を、私は、複数畳を積む蒲団型の前に登場或いは存在していた「1畳蒲団型」と仮称し、「前期・蒲団型太鼓台」と名付けたいと思う。その意味合いは、〝蒲団を重ね積む以前に存在していた、簡素な過渡期的蒲団型太鼓台〟と言うほどのものである。

  

最初の2カ所は、布状もしくは薄い蒲団状のもの。左から、宇和島湾沖の日振島に存在していた「ヨイヤセ」(平天井の上に厚めの黒い布状を飾っている。廃絶)、こちらも宇和島市近くの愛南町柏の「四つ太鼓」(布状のものは、日振島より厚くなっている様子)。次の2枚は、和歌山県御坊市の「四つ太鼓」で、幌のような帽子を被せている。「四つ太鼓」や平らな枠張りの天井を「障子・しょうじ」と呼ぶのは、南予地方と御坊市周辺だけである。(南予地方には3畳重ねの蒲団型の四つ太鼓もある)現在、私はこれらのカタチを「平天井型太鼓台」に区別しているが、上述した「前期・蒲団型太鼓台」として、今後は「蒲団型太鼓台」の前段に配置して考察するべきかも知れない。

(2)1本鉢巻型の太鼓台

天井を覆う厚手の布状のもの1枚を積んだカタチ(1畳蒲団型)以外にも、「前期・蒲団型太鼓台」と名付けたいカタチの太鼓台が存在する。1本の丸い鉢巻状を積んだ太鼓台(「1本鉢巻型」と仮称)である。冒頭の表では、このカタチの太鼓台を、3畳・5畳と巻き付けた「鉢巻蒲団型太鼓台」の中に含めて分類しているが、1本積みの特異なカタチから、鉢巻型に発展する要素を持ちながらも、後の「鉢巻蒲団型」が登場する以前から存在していた「前期・蒲団型太鼓台」と呼ぶべき存在のものではなかったか、と改めて再考している。「前期・蒲団型太鼓台」を強いて言えば、本物蒲団型・鉢巻蒲団型・枠蒲団型太鼓台の登場する以前の段階のカタチであると考え、「1本鉢巻型」と「1畳蒲団型」の2形態を、敢えて「前期・蒲団型太鼓台」と称するべきではないかとも思う。

上掲の太鼓台は、1本の鉢状を天井の上に積むカタチのもの。最初の2枚は、山口県周南市須々万(すすま)の「揉み山」(もみやま:花飾りを刺した4本の棒状にしている。この棒状は、元々は藁で丸い輪に拵えていたが、作るのに煩雑であったため簡素なこのカタチに変更された由。中央は造り物で、ミニチュアの俵を積み重ねている)後ろの3枚は種子島の「太鼓山」(通称は「チョッサ」)で、太い藁巻き(鉢巻状)に拵えている。以前の太鼓山は、写真よりも一回り小さかったと見学時に聞いた。これらは区別的には「鉢巻蒲団型太鼓台」としているが、こちらも、平天井型太鼓台から蒲団型太鼓台へ変化・発展する過渡期に存在していた「前期・蒲団型太鼓台」の「1本鉢巻型」として再考すべきかも知れない。

以上(1)(2)で眺めたそれぞれの太鼓台は、「本物蒲団型」「鉢巻蒲団型」「枠蒲団型」などに変化・発展していく要素を秘めていることから、大くくり的には蒲団型に属する太鼓台であると考えている。私は、これらの「1畳蒲団型」及び「1本鉢巻型」の太鼓台を、冒頭の発展想定図では、前者を「平天井型」に、後者を「鉢巻蒲団型」に含めている。これを、「前期・蒲団型太鼓台」として見直すべきできないかと考えている。下図右は、その間の事情を踏まえ、発展想定図に「前期・蒲団型太鼓台」を追加したものである。蒲団型となる以前のカタチは、このような厚手の布状(1畳蒲団型)や1本の鉢巻状(1本鉢巻型)を、四本柱上の天井(障子)に載せた「前期・蒲団型太鼓台」のカタチではなかっただろうか。

以下は(2)に続く。

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