京都府木津川市(旧・相楽郡木津町)の太鼓台〝御輿太鼓〟の始まりは、幕末に始まると伝えられている。京都府下と言っても太鼓台の多い奈良県に近く、更にその先は太鼓台供給地の大坂につながっている。この地理的状況を見れば、事の真相はどうあれ、御輿太鼓の幕末始期説については〝さもありなん〟と思う。
今、ここに木津・小寺御輿太鼓の古い記録がある。それは、大阪の住吉・大佐という地車(だんじり)屋の〝請取帳〟の中に認められている。『地車請取帳』の引用については<特徴的な「足・裏」表現と「四国、大坂、洲本」の桜井縫師について>に触れているので、そちらをご参考ください。下の記録がその内容で、記録の該当カ所には明確な年号は書かれていないが、記載された前後の年号から、記録は明治31年~同34年(1900前後)に比定されている。また、京都府立山城郷土資料館に展示されている御輿太鼓の水引幕に、〝明治丙午(ひのえうま、これは明治39年1906に相当する)之秋‥〟とある。これらのことから、少なくとも明治30年頃までには、木津各町の御輿太鼓台が、大坂や奈良を経て現在と同様な隆盛を極めていたものと想像する。
画像左から、『山車請取帳』の記録と小寺御輿太鼓、山城郷土資料館展示の御輿太鼓と幕、岡田国神社での御輿太鼓の奉納風景。最後の写真は、大正8年10月20日撮影の御霊神社参拝各町太鼓台(いずみホール展示のもの)
次に、本稿の本題である蒲団部について、小寺御輿太鼓の組立作業を通じて蒲団部の構造を見ることとする。既に、<太鼓台‥分岐・発展へ(5)>記事の後半部分において、小寺の組立作業のあらまし画像を紹介しているので、ここでは蒲団部構造のポイントとなる部分についておさらい的に眺めたい。
蒲団部は四隅が反り上がる〝反り蒲団型の太鼓台〟で、その内部は空洞になっている。天部は竹編みの〝帽子〟で中央に膨らみを持たせ、下部は格天井にて蒲団部全体は密封されている。この天の膨らみは、各地比較からの自説ではあるが、各地蒲団部の中に密やかに納められている〝伏せた竹籠の底部の膨らみ〟ではないかと思う。(竹籠は、民俗学的には神聖な依り代として位置付けられ、伏せた籠の中に、尊い神や神慮を密やかに潜ますと考えられている)その竹籠の例を以下の画像にて幾例か紹介しておく。
最初は愛媛県八幡浜市(旧・保内町)雨井の四つ太鼓、次いで三重県熊野市のよいや、その次に兵庫県たつの市(旧・新宮町)千本の屋台、更に京都府京丹後市(旧・丹後町各地)のだんじり、最後は愛媛県新居浜市の太鼓台。以上の太鼓台は、密封された蒲団(本来の蒲団は、柔らかく軽い綿等で詰まっている)の内部において、〝依り代〟的存在の〝竹籠〟を内に潜め、〝太鼓台そのものを神々しいもの〟として、自他共にアピールしている存在なのかも知れない。そう考えていくと、太鼓台装飾上、最も存在感のある蒲団部の役割や存在意義が、何とは無く朧げにも理解できるのではなかろうか。
蒲団型太鼓台は分布数も桁外れに多く、太鼓台文化圏では最もポピュラーな存在である。この部分を、客観的視点で各地比較し、蒲団部に関するさまざまな疑問を解明していくことは、広大な〝太鼓台文化圏最大のテーマ〟と言っても決して過言ではない。私たちは、文化圏各地での自太鼓台の蒲団部構造について積極的に披露・発信し、より客観的な知見を持つ必要がある。
また、四隅が若干反り上がった蒲団部のカタチについて、「本来、柔らかい綿などが詰められた蒲団を積み上げた時、蒲団〆で縛り固めた際の〝四隅の反り返り〟を象ったもの」ではないか、と単純に考えている。これまで蒲団部の発展過程を見てきたように、本物蒲団などでは平らな蒲団部に組み上げるのはなかなか困難であり、どうしても強く縛り付けると四隅が上がる。従って、蒲団部の〝反り〟については、文化圏各地の平らな蒲団部を持つ太鼓台と何ら無関係ではなく、太鼓台蒲団部の発展形態の一種と見做している。積み上げた蒲団部を型崩れしないように強く縛り上げた際、当然中央が凹み、四隅が上がるためである。
この〝反り蒲団〟の存在についても、幾例か紹介しておきたい。下画像の段毎に、上から本物蒲団を積んだ愛媛県南予・深浦のやぐら(四つ太鼓ともいう)、枠蒲団型に変化した同・久良のやぐら(四つ太鼓)、分厚い本物蒲団を積む広島県大崎下島・沖友の櫓、シーボルト時代の長崎・椛島町こっこでしょは蒲団部四隅が反り上がっていた、わずかに反りが見られる香川県琴平町のちょうさ、さまざまな反りを持つ兵庫県下の屋台(三木市、加西市、高砂市)等である。
最後に小寺御輿太鼓の素晴らしい飾り金具を紹介させていただきます。冒頭に紹介した『地車請取帳』の記録からは、明治31~34年に大阪で作られたものと考えられます。
(終)