太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(12)木津御輿太鼓祭り・小寺の「太鼓台」

2021年02月28日 | 研究

京都府木津川市(旧・相楽郡木津町)の太鼓台〝御輿太鼓〟の始まりは、幕末に始まると伝えられている。京都府下と言っても太鼓台の多い奈良県に近く、更にその先は太鼓台供給地の大坂につながっている。この地理的状況を見れば、事の真相はどうあれ、御輿太鼓の幕末始期説については〝さもありなん〟と思う。

今、ここに木津・小寺御輿太鼓の古い記録がある。それは、大阪の住吉・大佐という地車(だんじり)屋の〝請取帳〟の中に認められている。『地車請取帳』の引用については<特徴的な「足・裏」表現と「四国、大坂、洲本」の桜井縫師について>に触れているので、そちらをご参考ください。下の記録がその内容で、記録の該当カ所には明確な年号は書かれていないが、記載された前後の年号から、記録は明治31年~同34年(1900前後)に比定されている。また、京都府立山城郷土資料館に展示されている御輿太鼓の水引幕に、〝明治丙午(ひのえうま、これは明治39年1906に相当する)之秋‥〟とある。これらのことから、少なくとも明治30年頃までには、木津各町の御輿太鼓台が、大坂や奈良を経て現在と同様な隆盛を極めていたものと想像する。

画像左から、『山車請取帳』の記録と小寺御輿太鼓、山城郷土資料館展示の御輿太鼓と幕、岡田国神社での御輿太鼓の奉納風景。最後の写真は、大正8年10月20日撮影の御霊神社参拝各町太鼓台(いずみホール展示のもの)

に、本稿の本題である蒲団部について、小寺御輿太鼓の組立作業を通じて蒲団部の構造を見ることとする。既に、<太鼓台‥分岐・発展へ(5)>記事の後半部分において、小寺の組立作業のあらまし画像を紹介しているので、ここでは蒲団部構造のポイントとなる部分についておさらい的に眺めたい。

 

蒲団部は四隅が反り上がる〝反り蒲団型の太鼓台〟で、その内部は空洞になっている。天部は竹編みの〝帽子〟で中央に膨らみを持たせ、下部は格天井にて蒲団部全体は密封されている。この天の膨らみは、各地比較からの自説ではあるが、各地蒲団部の中に密やかに納められている〝伏せた竹籠の底部の膨らみ〟ではないかと思う。(竹籠は、民俗学的には神聖な依り代として位置付けられ、伏せた籠の中に、尊い神や神慮を密やかに潜ますと考えられている)その竹籠の例を以下の画像にて幾例か紹介しておく。

最初は愛媛県八幡浜市(旧・保内町)雨井の四つ太鼓、次いで三重県熊野市のよいや、その次に兵庫県たつの市(旧・新宮町)千本の屋台、更に京都府京丹後市(旧・丹後町各地)のだんじり、最後は愛媛県新居浜市の太鼓台。以上の太鼓台は、密封された蒲団(本来の蒲団は、柔らかく軽い綿等で詰まっている)の内部において、〝依り代〟的存在の〝竹籠〟を内に潜め、〝太鼓台そのものを神々しいもの〟として、自他共にアピールしている存在なのかも知れない。そう考えていくと、太鼓台装飾上、最も存在感のある蒲団部の役割や存在意義が、何とは無く朧げにも理解できるのではなかろうか。

蒲団型太鼓台は分布数も桁外れに多く、太鼓台文化圏では最もポピュラーな存在である。この部分を、客観的視点で各地比較し、蒲団部に関するさまざまな疑問を解明していくことは、広大な〝太鼓台文化圏最大のテーマと言っても決して過言ではない。私たちは、文化圏各地での自太鼓台の蒲団部構造について積極的に披露・発信し、より客観的な知見を持つ必要がある。

また、四隅が若干反り上がった蒲団部のカタチについて、「本来、柔らかい綿などが詰められた蒲団を積み上げた時、蒲団〆で縛り固めた際の〝四隅の反り返り〟を象ったもの」ではないか、と単純に考えている。これまで蒲団部の発展過程を見てきたように、本物蒲団などでは平らな蒲団部に組み上げるのはなかなか困難であり、どうしても強く縛り付けると四隅が上がる。従って、蒲団部の〝反り〟については、文化圏各地の平らな蒲団部を持つ太鼓台と何ら無関係ではなく、太鼓台蒲団部の発展形態の一種と見做している。積み上げた蒲団部を型崩れしないように強く縛り上げた際、当然中央が凹み、四隅が上がるためである。

この〝反り蒲団〟の存在についても、幾例か紹介しておきたい。下画像の段毎に、上から本物蒲団を積んだ愛媛県南予・深浦のやぐら(四つ太鼓ともいう)、枠蒲団型に変化した同・久良のやぐら(四つ太鼓)、分厚い本物蒲団を積む広島県大崎下島・沖友の櫓、シーボルト時代の長崎・椛島町こっこでしょは蒲団部四隅が反り上がっていた、わずかに反りが見られる香川県琴平町のちょうさ、さまざまな反りを持つ兵庫県下の屋台(三木市、加西市、高砂市)等である。

最後に小寺御輿太鼓の素晴らしい飾り金具を紹介させていただきます。冒頭に紹介した『地車請取帳』の記録からは、明治31~34年に大阪で作られたものと考えられます。

(終)

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蒲団部構造(11)香川県西讃・愛媛県東予地方の太鼓台、河内(こうち)上組の「ちょうさ」

2021年02月26日 | 研究

河内(こうち)上組太鼓台は、愛媛県四国中央市(旧・伊予三島市)の上町・久保(久保・上町、別名〝東雲〟太鼓台)にて、明治26年(1892)に造られたものである。伊予三島から河内に伝えられた長持ち状〝保管箱〟の左右側面に「上町」と「久保」がそれぞれ書かれているので、伊予三島では隣り合う両地区が共同で保有していたものと思われる。同じ26年に〝金大八ツ房并に同小房入箱(とんぼの金糸・八ツ房と、蒲団四隅に飾る金糸・小房)〟が作られ、その後の明治35年(1902)に金縄が東雲太鼓台で作られている。

明治44年(1911)の〝四ツ房箱(四本柱四隅に飾る大房)〟には「上組太鼓」と書かれているので、三島から購入後、山本町河内上組にてグレードアップするため四つ房を新調したものであろう。後年地元の計らいで河内上組太鼓台は香川県立ミュージアムへ寄贈され、これまでに何回か展示もされ、愛媛県東予から香川県西讃域の明治中期の太鼓台を知る上で大いに活躍している。

このように太鼓台道具箱の現存状況等から、太鼓台が伊予三島から河内上組へ伝えられたのは、明治40年(1907)前後のことと思われる。明治26年の新調間もない伊予三島の太鼓台が河内地区に伝えられたのは、同地区で権勢を誇っていた「大庄屋・大喜多家の尽力によるところが大きかった」と、地区の皆様から聞いた。広大な屋敷を持つ大喜多家の在る河内では、〝ここから金毘羅さんへ参詣する五里六里の間、大喜多家以外の土地を踏むことなく行けた〟と今も語られている。

大喜多家によって伊予三島から購入されてきた太鼓台は、この屋敷の中にあった蔵で年中保管され、祭りの時だけ〝大喜多家から若連中へ貸し出され、組み立ては塀の外の空き地で行っていた〟とご教示いただいた。120年以上経過している割に太鼓台の痛みが少ないのは、三島からの購入が新調から十数年しか経ってないことと、祭りが終われば地区民の手の届かない屋敷の中の蔵に大切に仕舞われていたためだったと思う。現在、河内上組太鼓台は、地区民の総意に基づき高松の香川県立ミュージアムへ寄贈され、〝明治期の基準太鼓台〟箱浦屋台の後に続く、〝明治中・後期の東予・西讃の姿を伝える太鼓台〟として、太鼓台文化圏の遺産として永く伝え遺されている。(最後の写真は、H7(2005)年9月、ミュージアムでの「讃岐の祭り-太鼓台とだんじり展」の組立時のもの。後方は若干小振りな箱浦屋台)

以下の画像の中にある水引幕の金糸の色合いが、掛蒲団や蒲団〆と比べると経年劣化が少ないので、より後年に作られたものと想像する。

 

積まれた7畳蒲団は、各辺連結の枠分解型で、閂は一つの面に対し2か所である。このカタチは、現在の西讃・東予地方では広く普通に分布している。〝蒲団バリ〟と通称される外側の丸い竹籠編み部分は、竹の網代編みとなっている。

[関連] 三好市池田町井ノ久保の「ちょうさ」

四国札所・雲辺寺への阿波からの登り口近くに、井ノ久保地区はある。現在は出されなくなったが、明治20年(1887)製の蒲団枠を飾る太鼓台が伝えられている。

明治20年製の井ノ久保太鼓台では、中央に閂が1か所つく。太鼓台そのものも、やや細身で少し小さい。水引幕や掛蒲団は遺されていなかった。西讃・東予の太鼓台に積まれている蒲団部の閂だけに特化してみれば、明治8年(1875)の箱浦屋台が1か所、明治20年の井ノ久保太鼓台でも1か所、明治26年(1892)の伊予三島・東雲太鼓台(後の河内上組太鼓台)では2か所となっている。少ない事例ではあるが、明治20年代の半ばを境にして閂の数が2カ所に増えている。当然ながら、各地では太鼓台の大型化への需要が高まり、そこに積まれた蒲団部も比例して大きくなり、組み上げられた蒲団部の補強を確固たるものとするため、閂の増加につながったものと考えている。

[小論まとめ]

この地方の太鼓台は元々から現在の規模でなかったことは想像に難くない。発展の過程で徐々に現状に近づき、豪華装飾や太鼓台の大型化・重量化が成されたものである。太鼓台文化圏各地の太鼓台の規模を眺めてみると西讃・東予地方についても同様で、明治8年(1875)製の箱浦屋台では、現在の近隣各地に比べ一回り以上小さい。このことは、新居浜から広島県大崎下島・大長(おおちょう、現呉市豊町大長)へ伝えられた太鼓台(地元呼称は櫓・やぐら)、更に大長から能地(三原市幸崎町能地)へ伝えられた太鼓台(地元呼称・ふとんだんじり)の新旧の比較図等(新居浜市立図書館『新居浜太鼓台』H2.3刊)で明らかになっている。この大長と能地の太鼓台が幕末から明治初期製と比定されている。(能地の方が大長よりも古い)しかしながらそれ以前になると、物理的にも古いものは殆ど遺されていなく、この地方の太鼓台発展の様子は雲を掴むような話となり、甚だ困難を極めている。

この地方における能地・大長に続く時代の太鼓台は箱浦屋台であり、更に箱浦に続くのは井ノ久保であり、この河内上組の太鼓台である。太鼓台はその時代時代において人々の熱い想いを受け留め、その結果、今日の規模に近づいたものである。これらの太鼓台から想定されることは、明治20年半ばに太鼓台の大型化が推進され、それまでの若干小振りな太鼓台が徐々に駆逐されていき、やがて明治後半に至り、東予から西讃・中讃及び西阿(徳島県西部)の太鼓台は、ほぼ全てが画一的な規模の大型太鼓台に変化・発展していったものと想像する。

(終)

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ブログの投稿内容です

2021年02月22日 | 太鼓台文化の情報


以下に、本ブログの投稿済み一覧(2022.10.23現在=現行化の途中)があります。投稿グループ別に色を変えています。

▪太鼓台文化の基本情報‥分布の広がり・分岐・発展等に関するテーマ

1 太鼓台-分布の広がりと呼称、〝太鼓台〟は標準語か?-2019.03.28

2 太鼓台‥発生から、分岐・発展へ(1)-2019.03.30

3 太鼓台‥分岐・発展へ(2)-2019.04.01

4 太鼓台‥分岐・発展へ(3)-2019.04.04

5 太鼓台‥分岐・発展へ(4)-2019.04.04

6 太鼓台‥分岐・発展へ(5)-2019.04.04

7 「太鼓台」表記の初見について -2019.04.04

8 各地の「絵画史料」に描かれた太鼓台 -2019.04.09

9 文化圏各地における〝太鼓台登場〟記録の一覧(年表)その1 -2019.07.02

10 文化圏各地における〝太鼓台登場〟記録の一覧(年表)その2 -2019.07.02 

11 「フトン(蒲団)型太鼓台」の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、「布団」なのか? -2019.07.11

12 太鼓台流布と各藩の大坂蔵屋敷について -2020.02.22

13 蒲団部構造に関する考察(1) -2020.09.04

14 蒲団部構造に関する考察(2) -2020.09.18

15 蒲団部構造に関する考察(3) -2020.09.22

16 制作年代がほぼ特定できた蒲団部たち(総集編) -2020.09.25

17 蒲団部構造(1)‥燧灘・伊吹島の「ちょうさ」 -2020.10.01

18 蒲団部構造(2)‥紀伊半島・熊野市の「よいや」 -2020.10.03

19 蒲団部構造(3)‥斎灘・大崎下島・沖友の「櫓」 -2020.10.08

20 蒲団部構造(4)‥瀬戸内下津井沖・松島の「千載楽」 -2020.10.14

21 蒲団部構造(5)‥佐田岬半・雨井の「四つ太鼓」 -2020.10.20

22 北前船が、太鼓台文化の伝播にどのような影響を与えたのか -2020.11.13

23 蒲団部構造(6-①)‥家船の親村・能地の「ふとんだんじり」 -2020.12.08

24 蒲団部構造(6-②)‥能地の「ふとんだんじり」資料集 -2020.12.12

25 蒲団部構造(7)‥幕末の太鼓台、大野原町田野々の「ちょうさ」他 -2021.01.19

26 蒲団部構造(8)‥四国山地・大月の「ちょうさ」 -2021.01.28

27 蒲団部構造(9)‥風待ち湊・津和地島の「だんじり」 -2021.02.15

28 蒲団部構造(10)四国地方の明治期の基準太鼓台・箱浦「屋台」-2021.02.18

29 蒲団部構造(11)香川県西讃・愛媛県東予地方の太鼓台、河内(こうち)上組の「ちょうさ」 -2021.2.26

30 蒲団部構造(12)木津御輿太鼓祭り・小寺の「太鼓台」 -2021.2.28 

31 種子島・鉄砲祭の〝太鼓山〟 -2021.3.10

32 燧灘・魚島だんじり<H15.10.5見学> -2021.3.12

33 芸予諸島海域の太鼓台 -2021.3.17

34〝伊吹島・西部太鼓台の幕〟よもやま話 ―2021.3.29

35  天保4年(1833)の伊吹島・南部太鼓台への〝見積書〟について ―2021.4.15

36 徳島県側の太鼓台等の見学について-①ー2021.4.20

37 徳島県側の太鼓台等の見学について-②ー2021.4.30

38 徳島県側の太鼓台等の見学について-③ー2021.4.30

39 高知県下の太鼓台等の見学について-2021.5.12

40 「積り書覚」(見積書)‥安政4年伊吹島・東部-2021.5.24 

41 〝雲板〟について‥考察⑴-2021.6.2

42 〝雲板〟について‥考察⑵-2021.6.14

43 〝雲板〟について‥考察⑶ 最終-2021.6.24

44 「割帳」‥三豊市山本町の山本西側太鼓台の古記録-2021.7.12

45 〝蒲団型太鼓台の、蒲団部・斜め化の始まり〟について-2021.7.16

46  積み重ねた蒲団が〝上ほど大きくなる〟カタチを、解き明かしたい。‥蒲団部斜め化の考察 -2021.7.31

47 太鼓台文化・事始め-2021.9.4

47 観音寺と太鼓台文化-2021.9.15

48 大野原太鼓台の歴史-2021.9.18


・太鼓台文化圏各地間の関係性‥客観的な事象を通じての比較・探求

1 昼提灯・余話(1) -2019.09.12

2 昼提灯・余話(2) -2019.09.18

3 特徴的な「足・裏」表現と、「四国、大坂、洲本」の桜井縫師について -2019.12.16

4 太鼓台の掛声について‥初めに -2020.03.31

5 掛声「こっこでしょ」の深読み -2020.06.25

6 旧・新宮町千本の屋台(現・兵庫県たつの市)-2020.08.02

7 天草下島・富岡のコツコデ)ショ-2020.08.11


▪地歌舞伎・古衣裳と太鼓台・古刺繡の関係性‥古刺繡技法・表現から眺めたさまざまな共通点の指摘

1 地歌舞伎衣裳の古刺繡と太鼓台・古刺繡との類似点比較について -2019.09.30

2 古刺繡酷似「龍」(A-①)‥頭部・筋肉の連結 -2019.10.07

3 古刺繡酷似「龍」(A-②)‥目尻の三角筋表現 -2019.10.07

4 古刺繡酷似「獅子」(B-①)‥頭部・筋肉の連結 -2019.10.18

5 古刺繡酷似「獅子」(B-②)‥配置の図柄酷似 -2019.10.18

6 牡丹の酷似(C-①)‥花弁に濃淡表現が見られる -2019.11.02

7 牡丹の酷似(C-②)‥複数の花弁を連結させた表現 -2019.11.12

8 牡丹の酷似(C-③)‥葉の先端の縫糸を交差させ、丸めてつないでいる -2019.12.02

9 波(D-①)‥波頭の外側が覆い被さる -2019.12.02

10 波(D-②)‥のこぎりの歯状に、波しぶきを鋭角的に表現  -2019.12.02

11 頭髪(E)‥刺繍ではなく、黒布や黒塗り和紙などで平面仕上げとなっている -2019.12.02

12 足・裏(F)‥切り込み深く、力強くリアルな表現 -2019.12.02

13 「奥田久兵衛」について‥前稿『地車請取帳』余話 -2020.02.21

14 古刺繡見学(野村シルク博物館) -2020.03.01

15 草相撲「化粧回し」の遠隔地における酷似について -2020.04.02


▪地域社会と太鼓台文化との関り‥近未来の超・少子高齢化社会での双方の関り方を模索

1 「これからの地域社会と太鼓台文化」について~香川県観音寺市を一例として~ -2019.03.28

2 太鼓台文化に想う -2019.05.23

3 「明治期の基準太鼓台」‥箱浦屋台に想う -2019.08.29

4 シンポジウム「香川の祭礼・民俗芸能の現状と課題」の開催について -2020.10.30

5 太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを -2021.01.26


▪太鼓台文化に関する情報‥文化圏各地のタイムリーな情報を、臨機応変にアップしていければ、と考えています。

1 香川県立ミュージアム 特別展「祭礼百態」の情報提供 -2019.07.04(※終了)

2 第4回琴平の祭り「獅子舞・太鼓台」写真展・開催中 -2019.09.21(※終了)

3 倉敷市児島・鴻(こう)八幡宮のテレビ放送について -2019.11.17(※終了)

4 観音寺市豊浜町「ちょうさ会館」の展示とイベントのお知らせ -2020.01.31(※一部終了)

5 回想「太鼓台文化の歴史展」に関するアンケート結果について -2020.05.02

6 太鼓台の〝ゴマ〟展示中 -2021.8.25

7 琴平の祭り 獅子舞と太鼓台写真-2021.9.14


▪太鼓台文化に関する〝図書・冊子・論文〟等のご紹介‥各地の本・冊子等の紹介を実施できれば、と考えています。

1『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』 -2019.05.03

2 「観音寺太鼓台研究グループ」編集・発行冊子の販売について -2019.08.10

3 引用の論文が見つかりました。〝蒲団〟に関する森岡貴志氏論文 -2019.09.16

4 「長崎諏訪神社祭禮に関する覚書」のコピー・転載 -2020.08.03

5 能地の「ふとんだんじり」資料集 -2020.12.12

(以上)

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蒲団部構造(10)四国地方の明治期の基準太鼓台・箱浦「屋台」

2021年02月18日 | 研究

川県三豊市詫間町の箱浦屋台(香川県立ミュージアムへ寄贈・保管中)の、主として四国側太鼓台文化圏における存在意義等に関しては、2019.8〝明治期の基準太鼓台・箱浦屋台に想う〟において述べているのでそちらをご参照していただきたいと思う。また、格好の情報として『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012.3観音寺太鼓台研究グループ刊)の22㌻~28㌻(以下)が参考となるはずである。

 

明治8年に誕生した箱浦屋台の蒲団部は〝枠蒲団型〟である。そのカタチは、文化圏各地に数多く広まっている形態、即ち蒲団枠の内側は板、外側の膨らみ部分は竹籠編みとなっている。外側の竹籠編み部分に、上から古紙(和紙)を貼っているのも、ほぼ各地で共通している。古い時代の人々には、竹は間違いなく万能で大切なモノであった。竹や笹は神事やハレの場には必須の存在であったと同時に、軽くて強度があり釣り竿のようにしなり易く、更には自在に加工しやすいことから、さまざまな日常生活の用に役立てることができた。神聖・軽量かつ身近に増殖し易い植物であった故に、各地太鼓台の美しさの象徴的な蒲団部に採用されてきたと考えられる。竹籠編みの上に貼る古紙は、ささくれ立った竹を覆い羅紗布を巻き易くするため、箱浦屋台では古紙を貼っただけとなっているが、各地の蒲団枠では更に柿渋を塗り、防腐・防虫に配慮している。閂(カンヌキ)は各辺の中央に1か所となっている。

写真は左から、箱浦地区にあった太鼓蔵での保管状況、蒲団枠の構造と組み立てられた外観(いずれも香川県立ミュージアムにて) 。最後の写真は、柿渋が塗布された蒲団枠の例(観音寺市村黒町にて)。ただ、今日では蒲団枠の丸みを保つ作りとして、竹籠に発砲スチールを代用する地方がほとんどとなっている。

比較参照

冒頭引用の《荘内半島「箱浦屋台」について》の26㌻(上掲、左から4番目の画像)の⑧に、「屋台の乗り子は、獅子舞の太鼓打ちと掛け持ちであった」とあるように、箱浦では屋台の乗り子が同時に獅子舞の太鼓打ちを務めていた。これは、広島県三原市幸崎町能地の「ふとんだんじり」の乗り子と同様な役割となっている。即ち、⒜能地の獅子太鼓は、現在では獅子が欠けた奉納形態となっているが、ふとんだんじりの乗り子が、だんじりより降りて、やはり獅子遣いの太鼓を叩いている。⒝また、現在の蒲団を積んだカタチ以前にあった蒲団を積まない〝屋台のごとき〟太鼓台の伝播元として、《蒲団部構造(6-②)能地の「ふとんだんじり」資料集》の「佐江崎村誌から振り返る能地ふとんだんじりの歴史」表では、伊予多度津辺が振り当てられている。⒞詫間町は多度津町の隣町であり、箱浦は荘内半島の先端近くに位置するとは言え、河岡武春氏作成「能地・二窓寄留移住地図」によれば、能地・二窓からの移住村にも近い。⒟能地ふとんだんじりの特徴的な掛声「世の中見事に」の文言は、坂出から宇多津・丸亀・詫間・仁尾に至る西讃岐の海岸線に広まって使われている。これらのことから、能地のふとんだんじり以前の〝屋台のごとき〟太鼓台が、実は掛声と共に、多度津辺からの伝播であったことが偲ばれているのである。

(終)

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蒲団部構造(9)風待ち湊・津和地島の「だんじり」

2021年02月15日 | 研究

津和地島

愛媛県松山市中島町(旧・温泉郡中島町)津和地(つわじ)島は、西の山口県周防大島や北の広島県倉橋島に近い、県境の島である。島の東側は冬季の西風を遮ることができる天然の小さな湾になっていて、人家が密集している。和船の沖乗りの時代には飲料水の確保が出来、瀬戸内の東西に流れる潮の満ち引きを上手く利用した潮待ち・風待ちの湊であった。有名な備後・鞆や安芸・御手洗ほど繁華ではないが、伊予松山藩の御茶屋もあったというほど栄えていた古い島湊である。

左から、津和地港と案内板(2007・2013)・かってのメインストリートを行くだんじり(1977)・ 乗り子(2007)・だんじり舁き(2013)・最後の2枚は東組(津和地島で最初のだんじり)の彫物道具箱で、それによると明治7年(1874)に導入されている。(後年の文化財由来書には明治6年とある)

津和地島のだんじり

津和地島には4台の蒲団型太鼓台〝だんじり〟がある。現在は生業主体が漁業となっていて、少子高齢化は〝超々〟がつくほど進行している。最も直近に見学した2013.10(H25)には、太鼓叩きの乗り子として、男児に混じり女児も何人かいた。聞けば、松山市在住の島出身の親が、だんじり保有地区から頼まれて参加したという。高齢化も目立つようになっていた。島では担ぎ手も不足し、4台のだんじりのうち、人口減少等から1台は出せなくなっていた。最初に訪れた1977.10(S52)時点では、担ぎ手のほとんどが漁業関係や島出身の青壮年で、高齢者は少なかった。やがて参加年齢は50歳にまで引き上げられ(H19・2007時点)、次いで80歳までへと延ばされ、〝今は、足腰の立つ男手の全てが参加することになった〟と笑い飛ばして答えてくれた。

しかし、そのように語ってくれた皆さんの顔は、男女を問わず嬉々として輝いており、甚だ若やいで見えた。私たち太鼓台文化圏・近未来の〝超々・少子高齢化社会〟を先取りしている格好の津和地島の現状からは、〝お年寄りの多い地域社会と、伝え遺していくべき伝統文化の好ましいカタチの有り様〟が垣間見えてくるように思えた。今後の各地の〝太鼓台文化圏&地域社会のあるべき姿〟について、津和地島から私たちは学ぶべきことが多々あるようにも思った。

蒲団部の構造等

 

写真左から、蒲団枠の外観(1枚)・四隅の固定部分(2枚)・蒲団部の内部構造(3枚)・格天井(2枚)・彫刻部分と斜めの雲板(1枚)・四本柱下部(1枚)・組立作業時一休憩(1枚)、蒲団部の蒲団〆に相当する飾りはタスキ状となっている。 

蒲団部は枠蒲団型であり、1畳ごとの蒲団は、四角い枠の芯部分に柔らかい打った藁を巻き付けていた。藁の外側にはカタチを整えるため、萱やスポンジ・漁網なども使用されていた。スポンジや漁網などは、蒲団を眺めた場合の体裁を考えての使用と考えられるが、近頃の応用であろうと思われる。それぞれの蒲団枠の四隅には蒲団枠の型崩れを防ぐ三角形部分があり、その穴に綱を通して強固な五畳一体の蒲団部に拵える。

蒲団部を乗り子座部の部分から眺めると、彩色された格天井があり、蒲団天の布とによって蒲団部は密封されている。格天井の直ぐ上に、四本柱の揺らぎやだんじり全体を補強するための✖型の太い斜交いがある。斜交いの先端は、斜め角度に切られていて、かなり珍しい〝斜め雲板〟の内側に合うようになっている。雲板については、平面的な雲板が太鼓台装飾の本流であると考えているが、津和地島のだんじりでは逆台形の斜め雲板になっている。

斜め雲板を太鼓台へ採用している地方としては、愛媛県・西条市立こどもの国にて展示・復元の〝新町みこし(太鼓台型のだんじり)〟に同様のものが備わっている。(下記写真を参考)

 

左から、津和地島の斜め雲板&彫刻と雲板の角飾り(3枚、津和地島)、新町みこしの外観(斜め雲板の様子、2枚)・西条だんじりの四本柱上部の構造(1枚)。(後者は、いずれも西条市こどもの国にて展示中) 

このように、新町みこし蒲団部の斜め雲板と、津和地島だんじりの斜め雲板とはよく似ている。新町みこしの場合は、年代的に先出していた数多くの西条だんじりの影響があったものと思う。(西条だんじりの四本柱上部に、新町みこしと同様の構造が見える) ただ現在、私たちが何気なく〝太鼓台の雲板〟と称している蒲団部全体を載せた平らな部分(この部分には瑞祥の彫刻などを施していることが多い)は、過去の時代においては、津和地島や西条のような〝斜めの雲板〟ではなかったか、との疑念は拭えない。

東組だんじりの刺繍幕

最後に、1873明治6年頃の津和地島初の〝東組だんじり〟に用いられた唐獅子・牡丹図柄の刺繍幕を紹介する。

(終)

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