考察⑴⑵で紹介した蒲団型太鼓台の雲板は、重ねた蒲団部を安定的に積み置くため、四本柱から少し張り出す、平らで堅牢なカタチのものであった。平らな雲板の彫刻を鑑賞するためには、私たちは真上に反り返って見上げなければならなかった。飾られた額縁のように彫刻作品に正対して鑑賞できるのが、角度を設けた〝斜めの雲板〟であった。この斜め雲板の存在についても以下に紹介しておきたい。
西条市こどもの国(現在休館中)に展示されていた復元の〝みこし〟(=新町みこし。蒲団枠を積み重ね、大きな車輪をつけただんじりをいう。いわゆる神輿とは異なり、蒲団型太鼓台とは同根異種の関係にある)には、蒲団型太鼓台の雲板部分に相当する箇所に、〝支輪(しりん。便宜的に〝斜め雲板〟と名付ける)〟と呼ばれている部位がある。蒲団型太鼓台の雲板と外観上で異なっているのは、〝水平か、斜めか〟の違いだけである。みこしと蒲団型太鼓台とでは構造的にほぼ同一であるため、太鼓台やみこしの中古市場を通じて、太鼓台の盛んな近隣各地とも相互に影響し合っている。
みこしの支輪(斜め雲板)の誕生については、有名な西条祭りの主役・だんじり構造からの影響が、極めて大きいと考えられる。こどもの国では、新町みこしの直ぐ隣にだんじりが並べて展示されていたが、それにも支輪と呼ばれる部位があり、やはり斜めに取り付けられている。ただ設置場所は、みこしが蒲団部の下であるのに対し、だんじりでは上高欄の下となっており、時代的には後の登場であったと考えられているみこしが、だんじりの構造を模して採用されたものと思われる。下の写真は、上段が復元された新町みこし、下段が西条のだんじり(共に西条市こどもの国にて展示)で、逆台形かつ斜めの板への彫刻という双方支輪の構造は酷似している。この両者の支輪については、西暦1830年代の絵画史料に既に斜め雲板の様子で描かれている。
次の写真は、愛媛・広島・山口の3県県境に位置する愛媛県・忽那諸島の津和地島のだんじりである。この蒲団型太鼓台も、西条のみこし同様、雲板部分に斜めの構造物がはめ込まれている。この部位の呼称については地元でも伝承されておらず不明であるが、これも明らかに雲板の一形態のものである。この斜め雲板部分の構造を眺めると、上掲の西条みこしと大変よく似ていることが分かる。津和地島のだんじりの始期は明治7年(1874)のことと判明しているが、西条との関連があるのかどうかはよく分かっていない。かっての津和地島が沖乗りコースの主要な湊であり、瀬戸内各地や上方とも結ばれていたことから、西条とも何らかの関連があったのかも知れない。
さて、斜め雲板と平らな雲板とでは、それぞれどのような特徴や利点があるのだろうか。また、どちらが先で、どちらが後から登場したのだろうか。そのところを客観的に理解するため、信頼の置ける文書や絵画史料等の中から眺め、考察を加えていきたい。以下に実見できる関連項目を示す。
ⓐ上述したように、西条祭りを描いた天保6年(1835比定)の絵巻に、みこしが彫刻付きの支輪(斜め雲板)で描かれている。絵巻には、みこし4台とだんじり19台とが一緒に描かれていて、みこし・だんじり全ての支輪は斜め雲板として描かれている。(福原敏男氏著『西条祭礼絵巻』参照。だんじりの場合、雲板と呼ぶのは躊躇されるが‥)
ⓑ明治7年(1874)に初めて登場したことが分かっている上記・津和地島のだんじりに関連して。斜め雲板を採用している蒲団型太鼓台は、実は少数派である。各地の発展途上の蒲団型太鼓台も相当数実見してきたが、類型的な平らな雲板ばかりで、私自身が実際に見た斜め雲板を採用した蒲団型太鼓台等は、上記の西条・津和地島の2例だけである。
Ⓒ真偽は定かではないが、〝もしかしたら、この蒲団型太鼓台も斜め雲板?〟と思われる太鼓台があり、それが次の太鼓台(観音寺市・酒太鼓台、さか-)である。雲板が斜め雲板である場合には、雲板となる板が4分割されていなければならない。酒太鼓台の場合には、2013年の「太鼓台文化の歴史展」で展示した「雲板箱」の蓋によって、各辺が4分割されていることがほぼ間違いないものと判明している。ただ、雲板を4分割しても、上記の西条と津和地島の場合と同様な斜め雲板を採用していたかどうかは、全くの別問題であり、当時の酒太鼓台の雲板が、平らであったか斜めであったかは、今なお不明のままである。
雲板箱に収められていた〝4分割の雲板〟の規模に関しては、蓋の縦横サイズと深さの聞き取り(箱サイズ:横幅40×長さ107㎝、深さは30~40㎝あったと聞く)から、形状を推測して試作した。それが、左写真後方の発泡スチロールの白い逆台形状のもので、長辺が約1m・幅が約35㎝として試作した。蓋には「文政6年(1823)雲板箱」と墨書されていて、この太鼓台(酒太鼓台の初代ではない)が誕生した年代を示している。また上記のように、平らな雲板か、斜め雲板かは不明である。私たちはこの4枚の板が、どのように張り合わされ、雲板として用いられたかを想像するしかない。上右写真は昭和16年頃の先代太鼓台であるが、この太鼓台の雲板は、同規模の他の太鼓台が彫刻を配した雲板であったのに対し、近隣では珍しい〝格天井〟を模した飾りとなっていた。(観音寺市の旧・三好写真館提供。なお格天井の雲板は、近隣以外の太鼓台ではまゝ見られている)
ⓓこの試作〝雲板〟に対し、来場された方から、下記のような素朴な疑問が寄せられた。その疑問点(下添付)をまとめてみると、展示した逆台形の板は、雲板本体よりも内側にあった板ではないか。従って、板は小さいはずで、本当の雲板はこの板より外側にあって大きい、というもの。雲板とするならば〝小さ過ぎる〟のではないか、というご意見であった。
ⓔ果たして当時の雲板は、この「雲板箱」以外の何らかの箱でも収納・保管されていたのだろうか。かっての雲板が小さかったことに対しては、私は〝太鼓台が今よりも随分と小さかったので、当然雲板も小さいものであった〟と考えている。この地方の蒲団型太鼓台の規模を比較してみると、現在のもので高さが4.2m内外、重量では3tに及ぶものがある一方、幕末から明治初期にかけてでは、高さが2.8~3.4mまでと一回りも二回りも小さい。重量は半分以下ではなかったかと想像する。このため、当然ながら雲板自体も小さいものであったはずである。また雲板の規模に大いに関係すると思われる年代物太鼓台の四本柱間の間隔についても、その存在は限られているが、下表で比較してみた。年代物の太鼓台群(参考A)よりも約40年以前の、文政6年の観音寺・酒太鼓台(参考C)では、雲板の規模に大いに関係すると思われる四本柱間の間隔も、更に狭かったことが容易に想像されてくる。
画像は雲板周りが一体化している岡山県南地方の古いセンダイロク(左2枚は倉敷市下津井沖の松島、右は笠岡市沖の真鍋島)
ⓕ平らな雲板と斜めの雲板とでは、それぞれどのような特徴や利点があるのだろうか。また、どちらが先で、どちらが後から登場したのだろうか。㋐斜め雲板の特徴や利点に関しては、〝雲板の装飾性がより高まり、見物人側からは作品鑑賞がより容易になった〟ということではなかろうか。真上をのけぞって見上げるよりも、私たちは、より自然体に近い体制で彫刻を眺めることができるようになった。その反対に、斜め雲板は〝斜めに差し込んで装飾する〟ことが常態であるため、太鼓台運行時の強度や安全性に関しては〝平らな雲板よりも格段に低くなる〟と言わざるを得ない。㋑平らな雲板と斜め雲板とでは、どちらが先に登場し、どちらが後からの登場なのか。平らな雲板の起源は、蒲団型太鼓台に発展する以前の、平天井型太鼓台の平天井にあったことから、まずは平らな雲板が誕生したものと推測する。見物人に見せる彫刻で装飾されるようになり、鑑賞し易い斜め雲板に変化・発展したのではないかと考えている。
小論のまとめ
斜め雲板については、上記のように運行上の難点もあったと推測されることから、文化圏各地への広範囲な流布とはならなかったものと思われる。それにしても、雲板の4分割と言い斜め雲板の存在と言い、その変化の流れは、蒲団型太鼓台が発展期の只中にあった18世紀末から19世紀前半(寛政10年1798摂津名所図会の太鼓台・文化9年1812小豆島池田祭の奉納絵馬・文政3年1820加古川市神吉八幡の絵巻の太鼓台・文政10年1827頃シーボルト『日本』のコッコデショ・天保6年1835頃西条祭絵巻のみこし等)の間に、既に確実な記録として確認できている。当時の人びとが選択したであろう雲板自体の斜め化への流れは、恐らく雲板の単なる変化だけに止まらず、より美しくより豪華に〝蒲団型太鼓台を愛でる、更なる変革〟へと向かわせたのではなかろうか。
独断と偏見による私見を憚ることなく記すならば、蒲団型太鼓台・変革の流れは上記の絵画史料等の時代を境として、〝①蒲団枠を4分割し、②上層部の蒲団ほど大きくし角度を持たせ、③四本柱から上の太鼓台上層部全体を、視覚的にはあたかも斜め的に見せた構造〟として、それ以降の太鼓台変革の大きなうねりをけん引していったのではないかとも推測する。太鼓台の大型化や豪華さへの変革が、実は些細な雲板の斜めへの変化に端を発していたのかも知れない。太鼓台文化を理解する上での多くの疑問点が、現状では何ら解消されていないことに、もどかしさを感じているのは、私だけではないと思う。蒲団型太鼓台全体の〝斜め的な見せ方〟は、実は小さな部材である〝雲板の斜め化〟に端を発していた可能性もある。そう考察してくると、豪華な彫刻をちりばめた今日の雲板が、今から凡そ200年前に辿った〝平らから、斜めへ〟という小さな変革の意味合いは、決して見過ごすことはできないと思う。
(終)