工房・松里庵製と判明している太鼓台の獅子古刺繍では、大辻太鼓台・昼提灯(明治13年1880)と西山太鼓台・掛蒲団(明治24年1891)の親子獅子図柄に酷似を見ることができる。衣裳側の親子獅子は土庄町大部の歌舞伎衣裳・四天(よてん:四国村寄託中)に刺繍されているが、太鼓台側の親子獅子の図柄と酷似している。大部・四天の制作工房や制作年は、残念ながら確実に証明できる記録的なものがない。しかし図柄の酷似だけではなく、後日紹介する牡丹・花弁の濃淡表現(C-①)や、波頭のオタマジャクシ表現(D-①、波頭の外側が覆い被さる表現)に、工房・松里庵製と判明している作品と同様な特徴が色濃く確認されていることから、私は大部の四天も、大阪(大坂)などからの購入ではなく、琴平または観音寺に制作拠点があった松里庵製であることが極めて高いものと考えている。
北四国でのほとんどの龍・古刺繍の制作工房が、琴平の松里庵と特定されたように、獅子もまた同じ工房が深く関わっていたと認めざるを得ない。要するに、この地方の明治初期の装飾刺繍・制作工房のルーツは、琴平の松里庵を抜きにしては語ることはできないということである。
古刺繍の酷似を探究する場合には、作品の大・小の違いは、考慮する必要は無いものと考える。絵師が描いた「元絵」の獅子は見事な筆さばきの姿・形であった思われる。その「元絵」から作品化する際に真似て描いた縫師手製の「下絵」は、拡大率を変えて描き、それらを大・小作品の「下絵」としたものと思われる。
獅子の配置が酷似している太鼓台側の古刺繍では、前述したように、山本町大辻の復元・昼提灯及び徳島県池田町西山の掛蒲団で、幸いにも制作年代が特定できている。これに対し衣裳側の土庄町大部の親子獅子の四天(四国村寄託中)は、制作年代は判明していない。大部の四天は、少なくとも太鼓台側の古刺繍が誕生した明治20年代とそれほど違わない年代に、工房・松里庵(当時の制作拠点は琴平または観音寺)で制作されたものと推測される。
獅子は龍に比べると図柄的には小さい。また一つの作品に縫われた数は複数頭になる。小さい・多い獅子古刺繍から、別々の作品上で酷似を探し出すのはかなり難しい。例えば、大辻太鼓台で丁寧かつ慎重に復元された獅子幕では獅子10頭が刺繍されている。ベース絵の元絵から、獅子それぞれの阿吽の組合せや大・小を変更するなどすれば、多くの阿吽獅子の組合せが、下絵として可能となる。当時の職人たちは、元絵の表・裏を反転、あるいは角度を変えて回転する、更には阿吽の組合せそのものを変えるなどして、実際の刺繍の下絵となる獅子図を丁寧に書き起し、さまざまに躍動する刺繍作品として誕生させたものと想像する。
・大辻・昼提灯と複製された幕(共に坂出市の個人蔵、明治13年)
・西山・掛蒲団(明治24年、西山地区で管理保存) 最初の掛蒲団図柄が似る。
・大部の四天(屋島・四国村にて寄託中)
※縫師手製の獅子の下絵(松里庵・髙木家所有) 碁盤状に線を引き、元絵を拡大・縮小している様子が理解できる。
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