「蒲団」と表記するべきなのか、「布団」なのか-。
単なる漢字表記や旧字云々だけにとどまる問題ではない。私は強い意識を持って、「布団」ではなく、「蒲団」を用いている。
ここでは、小川光賜氏と森岡貴志氏お二人の探究を紹介し、「蒲団」と「布団」との相違点の確認と、私が「蒲団太鼓」と主張する理由について説明したい。
○小川光賜氏‥『寝所と寝具の文化史』(S59刊、P149~)
(中略)今日ではフトンのことを蒲団とも書きまた布団とも書くが、布団は比較的後世の当て字で、本来は蒲団と書くが、それは蒲(がま)を材料とした円形の敷物であったからである。(中略)つまりここでいう蒲団とは坐禅のとき、禅僧がお尻の下にあてがう小型の坐蒲団であった。それはふつう、径1尺2寸、周囲3尺6寸の円形で、中にパンヤなどを入れて弾力をもたせたものであったらしい。(中略)現在でも、フトンのことをなぜ蒲団とかくのかという理由がわからないまま、布団、蒲団の字が混同されることが多いし、じっさい問題としても、禅坐の用具であった蒲団と、江戸時代このかた寝具として一般に使われてきた蒲団とは、同じ字でよばれるにはあまりにも違いが大きすぎる。(後略)
○森岡貴志氏‥「蒲団」の研究-漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」
※ 漢語交じりの長文ですが、蒲団を考える上で大変参考になる論文だと思います。(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/06/morioka.html)
森岡氏論文と小川氏著書とを引用・参考にして、「蒲団」という言葉を箇条書き的に要約・深読みしてみた。
①「蒲団」の漢字は中国伝来の漢字で、平安時代から文献に見えていた。その時代には「ワラフタ」と訓じられていた。
②蒲団は、中国でも日本でも、元々は禅僧が座禅用の「座具」として用いた円形の敷物であり、蒲(がま)や麦藁(むぎわら)を編んで作られていた。
③日本で蒲団の漢字を「フトン」と音読するようになったのは、恐らく鎌倉時代中期頃とみられる。
④日本において、蒲団の意味が座具から寝具を指す言葉へと変化するのは、安土桃山時代(1500年代の終り頃)とされている。(「夜着(よぎ)」&「蒲団」で上・下の寝具一式となる。夜着は上掛けの夜具で襟付き・袖付きのもの、蒲団は敷蒲団を指す)
⑤「蒲団」の漢字は、日本では座具から寝具を指す言葉として、日本独自で変化して用いられるようになったが、中国では一貫して座具としての漢字であり、寝具には蒲団の字が用いられていない。
⑥木綿の最初の種綿栽培は失敗したが、2回目の種綿が中国からもたらされたのは室町時代(1392~1573)末期で、木綿生産は安土桃山から江戸時代初期に始まり、江戸時代を通じて各地に定着していった。
⑦寝具の蒲団が登場してくるためには、大量の綿と、それを包み込む木綿布地の生産が必須であった。
⑧江戸時代における蒲団は敷蒲団のことを指し、掛蒲団はまだ登場していなかった。
⑨「布団」という語は、江戸時代後期(1800年頃)から文献に出ていて、最初から「フトン」と音読され、寝具として認識されていた。
(参考;綿と木綿及び木綿布との関係] 綿は綿花から種を取り除いた塊を言い、木綿及び木綿布は、綿から取り出した木綿糸を材料にして製品化したものを言う)
<1>「蒲団」という漢字や座具は中国伝来のもので、さまざまなカタチをした全ての太鼓台が誕生する以前から存在していた。
<2>中国から伝来した時代より江戸時代初期までは、蒲団とは座具であり、蒲や麦藁でできた円形のものであった。(「布団」という漢字や製品はまだなかったか、少なくとも世間一般的な存在ではなかった)
<3>「蒲団」の漢字が、円い「座具の蒲団」の意味から、方形の「寝具の蒲団」の意味へと変化したのは江戸時代初期以降であり、その当時の「蒲団」とは、敷蒲団を指す語であった。
<4>寝具の蒲団‥最初は敷蒲団、後に上方では大蒲団(掛蒲団)にも‥の中身に多量の綿を詰めるためには、木綿が大量に栽培されなければならなかった。(しかし綿は高価であったため、一般への普及は、外綿が大量に輸入されるようになった明治中期以降を待たざるを得なかった-明治29年に「綿花輸入関税の撤廃」法が成立)
<5>この時代における「寝具の蒲団」の地方別相違については、西日本では主に「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団の前身&敷蒲団)が使われていて、東日本では「大蒲団」は使われず、西日本より遅くまで「夜着&蒲団」の時代が続く。
<6>「布団」という寝具を指す漢字は比較的に新しく、木綿布の生産と相まって一般化していった。
以上述べたように、「蒲団」とは座具から寝具へと変遷したものであり、当初の「寝具の蒲団」とは敷蒲団のことを指し、西日本では、東日本より一早く「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団&敷蒲団の様式)に変遷している。西日本と東日本の蒲団のカタチにおける相違点は、西日本が上下どちらの蒲団も方形であるのに対し、東日本では今しばらく夜着を用いていた。
実は、この大蒲団と夜着のカタチの違いが、東西日本の太鼓台文化の広がり(東日本は皆無、西日本に多量分布)に、決定的な濃淡をつけたと私は考えている。客観的に眺めても、太鼓台文化圏の分布の主流は、「蒲団型」の太鼓台が担っていると言っても過言ではない。綿入りの高価な蒲団を売って利益で潤うのは誰か。その蒲団の宣伝効果を、知らぬ間に担うこととなっていたのが、私たちの蒲団型太鼓台ではなかったか。これまでに太鼓台の受け入れ側からの探究はかなり進みつつあるのは確かだが、その反対側からの専門家的視線―即ち、太鼓台の売り手側(大坂・大店の呉服商)からの文献等による探究―も推進していかなければならない。まさに、各地の太鼓台が華々しく登場してくる時代こそが、畿内及び各地の綿生産の拡大・高価寝具としての蒲団の大量普及と深く関わっていたことが理解されてくる。
章の終わりに、次の表を示し、寝具の「蒲団」と太鼓に採用されている「蒲団」について考察を深めたい。
※本件記事は、『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015.3刊)に発表の、「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察から」(72~107P)をベースにして作成した。
(終)