太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

「フトン(型)太鼓台」の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか。

2019年07月11日 | 研究

「蒲団」と表記するべきなのか、「布団」なのか-。

単なる漢字表記や旧字云々だけにとどまる問題ではない。私は強い意識を持って、「布団」ではなく、「蒲団」を用いている。

ここでは、小川光賜氏と森岡貴志氏お二人の探究を紹介し、「蒲団」と「布団」との相違点の確認と、私が「蒲団太鼓」と主張する理由について説明したい。

○小川光賜氏‥『寝所と寝具の文化史』(S59刊、P149~)

(中略)今日ではフトンのことを蒲団とも書きまた布団とも書くが、布団は比較的後世の当て字で、本来は蒲団と書くが、それは蒲(がま)を材料とした円形の敷物であったからである。(中略)つまりここでいう蒲団とは坐禅のとき、禅僧がお尻の下にあてがう小型の坐蒲団であった。それはふつう、径1尺2寸、周囲3尺6寸の円形で、中にパンヤなどを入れて弾力をもたせたものであったらしい。(中略)現在でも、フトンのことをなぜ蒲団とかくのかという理由がわからないまま、布団、蒲団の字が混同されることが多いし、じっさい問題としても、禅坐の用具であった蒲団と、江戸時代このかた寝具として一般に使われてきた蒲団とは、同じ字でよばれるにはあまりにも違いが大きすぎる。(後略)

○森岡貴志氏‥「蒲団」の研究-漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」

※ 漢語交じりの長文ですが、蒲団を考える上で大変参考になる論文だと思います。(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/06/morioka.html)

森岡氏論文と小川氏著書とを引用・参考にして、「蒲団」という言葉を箇条書き的に要約・深読みしてみた。

①「蒲団」の漢字は中国伝来の漢字で、平安時代から文献に見えていた。その時代には「ワラフタ」と訓じられていた。

②蒲団は、中国でも日本でも、元々は禅僧が座禅用の「座具」として用いた円形の敷物であり、蒲(がま)や麦藁(むぎわら)を編んで作られていた。

③日本で蒲団の漢字を「フトン」と音読するようになったのは、恐らく鎌倉時代中期頃とみられる。

④日本において、蒲団の意味が座具から寝具を指す言葉へと変化するのは、安土桃山時代(1500年代の終り頃)とされている。(「夜着(よぎ)」&「蒲団」で上・下の寝具一式となる。夜着は上掛けの夜具で襟付き・袖付きのもの、蒲団は敷蒲団を指す)

⑤「蒲団」の漢字は、日本では座具から寝具を指す言葉として、日本独自で変化して用いられるようになったが、中国では一貫して座具としての漢字であり、寝具には蒲団の字が用いられていない。

⑥木綿の最初の種綿栽培は失敗したが、2回目の種綿が中国からもたらされたのは室町時代(1392~1573)末期で、木綿生産は安土桃山から江戸時代初期に始まり、江戸時代を通じて各地に定着していった。

⑦寝具の蒲団が登場してくるためには、大量の綿と、それを包み込む木綿布地の生産が必須であった。

⑧江戸時代における蒲団は敷蒲団のことを指し、掛蒲団はまだ登場していなかった。

⑨「布団」という語は、江戸時代後期(1800年頃)から文献に出ていて、最初から「フトン」と音読され、寝具として認識されていた。

(参考;綿と木綿及び木綿布との関係]  綿は綿花から種を取り除いた塊を言い、木綿及び木綿布は、綿から取り出した木綿糸を材料にして製品化したものを言う)

<1>「蒲団」という漢字や座具は中国伝来のもので、さまざまなカタチをした全ての太鼓台が誕生する以前から存在していた。

<2>中国から伝来した時代より江戸時代初期までは、蒲団とは座具であり、蒲や麦藁でできた円形のものであった。(「布団」という漢字や製品はまだなかったか、少なくとも世間一般的な存在ではなかった)

<3>「蒲団」の漢字が、円い「座具の蒲団」の意味から、方形の「寝具の蒲団」の意味へと変化したのは江戸時代初期以降であり、その当時の「蒲団」とは、敷蒲団を指す語であった。

<4>寝具の蒲団‥最初は敷蒲団、後に上方では大蒲団(掛蒲団)にも‥の中身に多量の綿を詰めるためには、木綿が大量に栽培されなければならなかった。(しかし綿は高価であったため、一般への普及は、外綿が大量に輸入されるようになった明治中期以降を待たざるを得なかった-明治29年に「綿花輸入関税の撤廃」法が成立)

<5>この時代における「寝具の蒲団」の地方別相違については、西日本では主に「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団の前身&敷蒲団)が使われていて、東日本では「大蒲団」は使われず、西日本より遅くまで「夜着&蒲団」の時代が続く。

<6>「布団」という寝具を指す漢字は比較的に新しく、木綿布の生産と相まって一般化していった。

 以上述べたように、「蒲団」とは座具から寝具へと変遷したものであり、当初の「寝具の蒲団」とは敷蒲団のことを指し、西日本では、東日本より一早く「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団&敷蒲団の様式)に変遷している。西日本と東日本の蒲団のカタチにおける相違点は、西日本が上下どちらの蒲団も方形であるのに対し、東日本では今しばらく夜着を用いていた。

 実は、この大蒲団と夜着のカタチの違いが、東西日本の太鼓台文化の広がり(東日本は皆無、西日本に多量分布)に、決定的な濃淡をつけたと私は考えている。客観的に眺めても、太鼓台文化圏の分布の主流は、「蒲団型」の太鼓台が担っていると言っても過言ではない。綿入りの高価な蒲団を売って利益で潤うのは誰か。その蒲団の宣伝効果を、知らぬ間に担うこととなっていたのが、私たちの蒲団型太鼓台ではなかったか。これまでに太鼓台の受け入れ側からの探究はかなり進みつつあるのは確かだが、その反対側からの専門家的視線―即ち、太鼓台の売り手側(大坂・大店の呉服商)からの文献等による探究―も推進していかなければならない。まさに、各地の太鼓台が華々しく登場してくる時代こそが、畿内及び各地の綿生産の拡大・高価寝具としての蒲団の大量普及と深く関わっていたことが理解されてくる。

章の終わりに、次の表を示し、寝具の「蒲団」と太鼓に採用されている「蒲団」について考察を深めたい。

※本件記事は、『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015.3刊)に発表の、「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察から」(72~107P)をベースにして作成した。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香川県立ミュージアム 特別展「祭礼百態」の情報提供

2019年07月07日 | 太鼓台文化の情報

高松市の香川県立ミュージアムにおいて、2019.8.3(土)~9.7(土)の間、標記の特別展が開催されます。(終了)

詳しくは同館のホームページを参照してください。( https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/ )

なお、講演会・シンポジウム・学芸講座・とことん解説会・ミュージアムトーク・ワークショップ等、なかなかディープな内容となっています。(参加には事前の申し込みが必要なものがありますので、ご注意ください)

 

 

展示物の撮影可否について

「展示物の撮影が出来るのか、どうか」―ミュージアムへ足を運ぶ動機の大きなポイントになると思いますが、館では以下のように整理されているようです。

撮影が可能な展示物‥オープンスペースに展示されている年代物の太鼓台(箱浦・河内上)・大獅子・だんじりなど。

撮影できない展示物‥ガラスケース・陳列ケース等に展示されている展示物。

なお、撮影に際しての注意点(×三脚 ×フラッシュ ×カメラ操作音)や、他の見学者に迷惑とならないようすること等は、一般常識です。

※以上はミュージアムでお聞きした撮影可否の概要ですが、実際には、会場の看視員の方にお尋ねし、指示に従って撮影してくさい。

※下の画像をクリックすると、本ブログのこれまでの投稿内容一覧表に移動します。

(終)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化圏各地における“太鼓台登場”記録の一覧(年表) その2

2019年07月02日 | 研究

年表‥各地における“太鼓台”記録

  1. 宝暦8(1758) 「御神事御規式定」記録/姫路市松原八幡神社 粕谷宗関氏著『播州屋台記・飾磨彫刻史』(S60年刊、26㌻)他 ★享保13年(1728)に神輿太鼓3台の記録。(木場村・松原村・中村)  ※現時点で太鼓台として確認できる最古の記録
  2. 寛政元(1789) ちょうさ太鼓/旧・大野原町(観音寺市)  ★大野原八幡神社「御神事行烈入用覚帳」享和2年(1802)の記録の中にあり。
  3. 同年(1789) 「神輿太皷」として1台が新調された際の寄付帳が現存する。 ★「神輿太皷扣覚帳」/旧・伊予三島市(四国中央市)
  4. 寛政6(1794) 神輿太鼓/呉市豊浜町斎島 越智正道氏著『安芸国・斎島の伝承と産土蛭児神社』(私家本)  ★島で初めての神幸を記録した板碑の裏面に、神幸の先導を務める神輿太鼓(=櫓)の記録あり。尼崎からの伝播。
  5. 寛政7(1795) みこしたいこ/旧・日和佐町(徳島県美波町) 「よろづひかえ覚」(『日和佐町史』1109㌻)宮大工重兵衛家の記録。★「みこしたいこ」の新調等に関わった内容を、箇条書き的に記載している。
  6. 寛政10(1798) ふとん太鼓/大坂・難波神社  『摂津名所図会』(秋里籬島・竹原春朝斎) ★太鼓台は「先進地・大坂」の蒲団型。この時代の最も豪華な部類の太鼓台
  7. (1798) コッコデショの初奉納 (Web参照「長崎年表」) ★「長崎くんち」に樺島町コッコデショが初めて奉納
  8. 享和元(1801) 卜半(ぼくはん)役所の記録(『貝塚市史』第3巻 170㌻、ふとん太鼓/貝塚市  ★南之町と近木之町太鼓台とが喧嘩)
  9. 享和2(1802) 玉島千載楽誌編集委員会編『玉島千載楽誌』(2008刊)  千載楽(せんだいろく)/倉敷市玉島 ★丸山千載楽の太鼓に年号記載
  10. 享和3(1803)  近藤武氏著『隠岐の民謡』(216㌻)&御崎神社の説明板 だんじり舞/島根県隠岐島町西郷宇屋 ★流人と当時の庄屋との合作により、神社遷宮に際し奉納開始 (※今年の古代出雲歴史博物館の調査で、流人が大坂西?町奉行所の与力であったことが判明した)
  11. 文化2(1805) 太鼓/観音寺市伊吹島東部  ★蒲団枠保管箱が蒲団枠と共に現存
  12. 文化3(1806) 神輿太鼓/旧・川之江市(四国中央市) 大庄屋「役用記」 ★「祭礼行烈次第」に、神輿太鼓が5台記録
  13. 文化5(1808) 「太皷寄録帳」 太鼓/伊吹島西部  ★文化6年(1809)に太鼓台を新調(拵え直し。従って実際の新調はこれより一世代前か)
  14. 文化6(1809) ちょうさ太鼓/観音寺市 庄屋関連古文書  ★大人用と子供用太鼓台を保有
  15. 文化6頃(1809頃) 松帆太鼓台/淡路市岩屋松帆 粕谷宗関氏著『祭屋台記』(2008刊、2㌻~) ★恐らく部材完全なもの・来歴確実なものとしては、現役最古級の豪華太鼓台
  16. 文化9(1812) 小豆島町・亀山八幡宮奉納絵馬 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が5台(その内の1台が「返し」を行なっている)
  17. 文化10(1813) 『金毘羅庶民信仰資料集・年表編』(S63刊)輿太鼓(ちょうさ)/琴平町 ★大井祭礼に、横町・金山(寺)町・札之前町・片原町が奉納
  18. 文政3(1820) 「神吉八幡神社御神事絵図絵巻」御先太鼓/加古川市・神吉八幡神社 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が2台
  19. (1820) 千載楽/倉敷市玉島 『玉島千載楽誌』 ★中山千載楽が伊予から伝来
  20. 文政3(1820) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) ★水引箱箱に「三井納」(大坂・三井呉服店)の記載
  21. 文政5(1822) 太鼓/新居浜市  ★「船大工仲間永代迄の諸覚帳」(新居浜太鼓台の初見)
  22. 文政6(1823) 太鼓/伊吹島南部 太皷水引箱  ★水引幕を保管するには薄く小さい道具箱
  23. (1823) ちょうさ/観音寺市  ★雲板箱(タテ・ヨコ107×40㌢、深さ3~40㎝)
  24. 文政8(1825) 米澤利光氏著『雨井の船の歩み』(2005刊) 四つ太鼓/旧・保内町雨井 ★明石から積み下ってきた鉢巻蒲団型の太鼓台
  25. (1825) 千載楽/倉敷市下津井松島 太鼓の胴内記録 ★小型の千載楽が現存
  26. (1825) みこし太鼓/西条市  一宮神社文書 ★素人大工の拵えたみこし太鼓が登場
  27. 文政10(1827)  神輿太鼓/新居浜市  ★一宮神社文書祭礼行列の華美を諌めている。
  28. (1827)  コッコデショ/長崎市 ★シーボルト編纂『日本』全1㌻に、コッコデショのイラストあり。このイラストは、シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた彩色原画を参考にして、シーボルト側で印刷に適した線刻の版画に制作し直されたものと言われる。(長崎くんち研究家のY.O氏ご教示。長崎では慶賀が描いた原画捜しが行われている由)
  29. 文政年間(1818-30) 屋台/たつの市 阿宗神社奉納絵 ★馬播州では珍しい五畳蒲団の太鼓台
  30. 天保元頃(1830頃) 松原八幡宮絵巻 屋台/姫路市 ★粕谷宗関氏著『祭彫刻志 播州屋台学』(36㌻~)
  31. 天保4(1833)  「太皷入用帳」(『新居浜太鼓台』306㌻) /新居浜市 ★新居大島・中之町太鼓台記録
  32. (1833) 太鼓台/伊吹島・南部 ★「太皷帳」新調時の記録
  33. 天保5(1834) 大工資料  ★「太皷台」表記の初見、粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊)
  34. (1835) ちょうさ/三好市池田町馬路  ★「衣裳水引・天蒲団 入箱」が現存する。讃岐(大野原)と阿波の太鼓台交流がうかがえる。
  35. 天保6頃(1835頃) 福原敏男氏著『西条祭祭礼絵巻』(2012刊)みこし/西条市・伊曾乃神社  ★祭礼絵巻の2巻に詳細画像…天保6(1835)年頃と幕末(1860)頃と比定される2巻が現存する。特に天保6年頃のものは、装飾等が精細に描かれている。
  36. 天保9(1839) どんでん/岡山市牛窓本町  ★格天井に「維時天保九龍舎戊戌(1838)季夏再造」、蛙股彫刻に「嘉永6年(1853)小松源蔵」
  37. 天保12(1841) 屋台/兵庫県太子町・黒岡神社 奉納絵馬  ★神輿屋根型の太鼓台
  38. 天保13(1842) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) 奉納絵馬  ★平天井型の太鼓台(夜間用のものか?)
  39. 天保期(1830-44) ふとん太鼓/堺市・開口神社 「三村宮祭礼絵馬」(堺市史第三巻)★豪華な祭礼行列の最後尾に、小さな蒲団型の太鼓台が2台
  40. 弘化元(1844)  ちょうさ/旧・山本町(三豊市) 「割帳」  ★西側太鼓台新調時の記録文書
  41. 弘化2(1845)  屋台/たつの市・梛(なぎ)八幡 奉納絵馬 ★神輿屋根型の太鼓台
  42. 嘉永元(1848) 屋台/姫路市・林田八幡 奉納絵馬 ★天部が円く膨らむ蒲団
  43. 嘉永5(1853) 櫓太鼓/今治市・大浜八幡 奉納絵馬 ★平天井型太鼓台
  44. 嘉永6(1853) ふとん太鼓/平野区・杭全神社 「平野郷牛頭天皇祭礼図」  ★舁棒の備わっていない蒲団型太鼓台
  45. 安政元(1854)~明治12(1879)頃 高価な装飾刺繍の貸し借りが、祭礼日の異なる地区間で盛んに行なわれていた。★大野原・下木屋太鼓台の古記録に、「損料」として毎年のように記載されている。(かきふとん・蒲団〆・金縄等)
  46. 安政3(1856) 太鼓台/伊吹島・東部 古文書「覚」  ★太鼓台新調の見積書と粗(あら)図面
  47. 安政4(1857) 太鼓台/伊吹島・東部 古文書「積り書覚」  ★前年に続く追加購入
  48. 安政5(1858) ちょうさ/三好市山城町大月 古刺繍 ★蒲団押さえ四隅の瑞雲形刺繍の裏に、墨書
  49. (1858) ちょうさ/旧・大野原町田野々 道具箱 ★「関谷」と書いた道具箱が数点現存していた。
  50. (1858) 屋台/加古川市・上荘神社 奉納絵馬 ★二畳(?)の赤蒲団を積む太鼓台
  51. (1858) 屋台/加古川市・厄除八幡神社 奉納絵馬 ★破風屋根型の太鼓台
  52. 万延元(1860) 屋台/たつの市・富島神社 奉納絵馬 ★庇(ひさし)のある蒲団型や屋根型の太鼓台
  53. 慶応3(1867) 櫓太鼓/今治市波止浜 龍神社祭礼絵馬  ★舁棒のない三畳蒲団の太鼓台
  54. 明治4(1871) 太鼓/まんのう町木ノ崎 掛蒲団保管箱 ★刺繍図柄は曾我物語「和田酒盛」
  55. 明治7(1874) よいや/熊野市 屋台改造記(大正7年の棟札記録) ★この年以前の屋台を改造した記録がある。
  56. 明治8(1875)  箱浦屋台/旧・詫間町箱(三豊市) 平桁保管箱 ※西讃・東予地方の明治期を通しての「基準太鼓台」
  57. 明治14(1881) 屋台/姫路市・林田八幡 奉納絵馬  ★神輿屋根型・蒲団型が混在する絵馬
  58. 年代不詳 屋台/兵庫県播磨町 「阿閇(あへ)神社祭礼図絵巻」 ★簡素な蒲団型太鼓台 国安天満神社 「例年九月九日祭禮神事順」絵図  屋台/兵庫県稲美町 ★各種形態の屋台が描かれている(Web閲覧) 屋台/兵庫県稲美町 ★各種形態の屋台(太鼓台)が描かれている。

①上記の各項目は、注意深く確認した筆者の客観情報に基づき作成している。(記事内容の最終確認月日―2024.8.17)

②本表ベースである冊子『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』の該当寄稿文には、項目のそれぞれに絵画史料等を提示している。主な太鼓台分布地の図書館等で図書のネット検索をし、直接冊子を参考にしていただきたい。なお、本ブログにおいても追々画像添付も行ないたい。

③太鼓台文化圏は広く、本表が歴史情報の全てでないことは百も承知している。しかし不完全でも、その一歩を踏み出さないでいると、ただでさえ不透明な太鼓台文化は「何もなかった、そのまま」で推移してしまう。本表を一つの叩き台にして、過誤の訂正や更なる各地の情報入手に努め、より正確な情報提供となるよう内容充実したい。各地の情報を是非ともお願いしたい。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化圏各地における“太鼓台登場”記録の一覧(年表) その1

2019年07月02日 | 研究

西日本各地に広まる太鼓台文化。これまでに示した分布概要地図(太鼓台文化圏・地図)のように、近世・経済文化の大動脈(大坂起点の瀬戸内海中心)一帯に、広範囲に伝播・伝承されている。現在の我が国人口の実に18%強(2300万人)が、何らかのカタチでこの文化に関与している。そのこと自体特筆されるべき事柄であるが、その一方で「認知度、文化の理解度」の低さは、一体どういうことであるのか!  他の伝統文化(祇園祭など有名寺社の祭礼、ユネスコ認定の広範囲な祭礼行事)などに比べ、明らかに開きがあり過ぎる。

その大きな原因の一つに、「歴史がよく分かっていない」点が挙げられる。太鼓台文化の歴史解明が、他の祭礼文化に比べると、かなり難しいのである。他の祭礼文化の歴史解明が、ほとんどその地方の個々の祭礼の中だけで終始できるのに対し、太鼓台文化の場合は、自らの地方だけの歴史解明では埒が明かない。それは、太鼓台文化そのものに「独自性」というものがなく、地の地方からの「受け売り・真似・流用」という宿命が、太鼓台誕生当初から、広い範囲の各地で付いて回っているからである。

しかし、文化規模の広大なことや間違いなく現在進行形の伝統文化である以上、その歴史を明らかにし、明らかになった客観的事象を文化圏全体の「共通認識」として理解し合うことが、太鼓台文化解明のスタートとして、まずは重要視されなければならない。次項<その2>に、取材等で入手した「各地太鼓台の記録」を、年表風に示す。(『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』2017.3所収、「草創期太鼓台の探究-その“カタチ”を遡る」より引用。そこでは画像等により詳細な補強説明が為されている)

断っておくが、年表風に書かれた地方以外にも、記録に遺されてこなかった地方が多々あるはず。(記録に遺されてきた一部地方以外は、ほぼ当初記録が欠けていると考えてよいのかも知れない) なぜなら、太鼓台自体がほとんど独自性のない〝物真似文化の所産なのだから。言わば民謡が流々転々と伝えられて今日に類型のものが各地に広まっているように、太鼓台を新たに導入しても、それに至る確かな記録が遺されることは少なかったと思われる。過去の確かな記録が少ないことは本当に残念で悔やまれるが、それを言っても仕方のないことだと思う。しかしながら、そうであるからこそ、私たちの太鼓台文化の解明には、これまで各地で判明している太鼓台古記録などの「客観的・原初の状況」にスポットを当て、広い視野で各地比較してみることが重要視されなければならない。

モノやカタチがこの世に登場する初期の段階を大切にしたい。そこを起点として、太鼓台文化を考えたい。起点が定まれば、困難な文化解明ストーリーも、さまざまな方法が見えてくるのではないかと楽観している。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする