太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

シンポジウム「香川の祭礼・民俗芸能の現状と課題」の開催について

2020年10月30日 | 太鼓台文化の情報

上記のシンポジウムは、下記要領で開催されます。

※このシンポジウムは終了しました。

※末尾に、当日配布された関連のレジメを参考添付しています。

‥ ‥ ‥ ‥

◎令和2年度文化遺産シンポジウム

1.演題「香川の祭礼・民俗芸能の現状と課題」

  ~少子高齢化やコロナ禍のもと、地域の祭礼や民俗芸能の現状と課題について探ります~

2.令和2年11月1日(日) 香川県立ミユージアム地下1階講堂

3.時間 14:30〜16:30

4.コーディネーター 佃  昌道(高松大学・学長)

  パネラー   尾崎明男 「これからの縮小時代と太鼓台文化の活用」

         菅原良弘 「大川念仏踊(民俗芸能)の現状と課題」

         田井静明 「コロナ禍の祭礼、現状と課題」

     ※パネリスト報告 各約20分

     ※ディスカッション 約50分

5.その他

    ・問い合わせ先 ミュージアム学芸課(087-822-0247)

   ※「讃岐獅子舞保存会」主催のシンポジウム、とお伝えください。

 ・当日のご参加はOKです。

 ・マスクの着用が必須です。

 ・検温、氏名・連絡先の記入などが求められるようです。

    ・会場で配布された資料を添付いたします。(A4・裏表カラー)

 

‥ ‥ ‥ ‥

以上です。

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蒲団部構造(5)佐田岬半島・雨井の「四ツ太鼓」

2020年10月20日 | 研究

四国・佐田岬半島・宇和海側の付け根、愛媛県八幡浜市保内町雨井(あまい)の「四つ太鼓」は豪華というほどではないが、見るからに端麗で古式豊かな太鼓台としての存在感に満ちている。決して大きくはない太鼓台ではあるが、装飾キンキラキン・巨大で豪奢な太鼓台の中で育った私は、そのルーツ的な魅力に引き付けられるように幾度となく訪れた。

四つ太鼓の蒲団部構造

外部から見ることのできない四つ太鼓の蒲団部構造に関しては、既に「太鼓台‥分岐・発展(4)」の中で画像を交え概要を紹介しているが、下記に今一度詳しくおさらいしておきたい。

ある"事件"が、何回目かの雨井見学の夜、いよいよ四つ太鼓を分解・格納する時に起きた。頑丈に組まれた蒲団部の内部がどのようになっているのだろうか、と蒲団部を四本柱から降ろす際、興味津々な私はカメラのフラッシュを光らせた。その時、すぐさま年配の方から、「中は見るものではない地元の者でも見たことがないのに、余所者が何をするか」と一喝された。一言も返せなかった。何が写っているのだろうか。帰宅して現像・引き伸ばしをして見ると、十字に組まれた天井板が写っていただけであった。そんなに一喝されることでもないのに、と思った反面、この天井上の内部はどうなっているのだろうか、と妙に興味をかき立てられた。

翌年、地区の郷土史家(故・米澤利光氏)のお骨折りで、お祭り前の四つ太鼓の蒲団部組立作業を見学することができた。今までに見たことがない蒲団部作りの一部始終を見せていただいた。雨井の四つ太鼓の形態は、蒲団部の一畳が鉢巻状となっていることから、私は「鉢巻蒲団型太鼓台」と分類しているが、子細な作業状況を初めて見ることができた。また、その後の各地見学で鉢巻蒲団型太鼓台は幾例か実見することとなるが、雨井での見学一夜は、「蒲団部構造の変化・発展こそが、太鼓台発展の客観的バロメーター」との確信を得ることとなった。その蒲団部組立作業を以下に紹介し、ブログを見られている皆さんと共有したい。

蒲団枠となる"鉢巻"は、雨井では中に綿を詰めている。(同じ鉢巻蒲団型の丹後半島・此代では、毎年もみ殻を入れ替えていた=最後の5枚の写真)年々の使用でどうしても綿が痩せてくるので、細かく千切った綿片を細い棒で補充しながら使用しているとの由。かなりパンパンに張った5本の鉢巻に、色違いのラシャ布を丁寧に巻き付けていく。蒲団枠のバランスを取るため、四隅の仕上げは複数人の同時作業となる。蒲団枠部分の拵えの次は、逆台形の木箱の周りに5本の鉢巻をはめ込んでいき、後で固定しやすいように木箱の穴に紐を通しておく。鉢巻がパンパンに張っているので、はめ易いように箱の口の広い方を下にして、大きな鉢巻から順次はめ込んでいく。5本の鉢巻が、あらかた木箱の周囲に収まったら、箱の内側と外側から型崩れしないように紐留めし、更に強度を保つため人の重しで固く整えていく。これも面倒な作業である。次に四方に足のついた竹籠を木箱の内側に、籠目の部分が天、足の部分が天井板側になるように格納する。最後に蒲団部全体を密封する。この際、竹籠の保護や天部の水平及び強度確保の厚紙を竹籠の上に載せ、赤ラシャ布を丁寧に縫い付けていく。これは女性が行っていた。密封された竹籠は宗教的な依り代・目籠(めかご)に当たるもので、この籠の下(中)に神聖な神様が宿ると考えられていたのだろうか。前年、一喝されたのはこの目籠に当たる竹籠の存在があったからではないかと思った。

各地見学の経験がまだ浅かった頃に、雨井・四つ太鼓と出会うことができた。間違いなく大きな刺激を受けた太鼓台の一つである。誰からともどこからともなく、「君は、太鼓台蒲団部の各地比較をして、謎を解きなさい」と後押しをされているような気持にしてくれた太鼓台であった。

総集編の雨井・四つ太鼓の紹介の中で、四ツ太鼓は嘉永元年(1848)、播磨の明石湊から伝播してきたことが分かっている。そして天井画の墨書から、四つ太鼓が明石で文政8年(1825)に作られたものであるらしいことが確実視された。明石で20年余り使われていた彼の地の、まだ十分に新しかったと思われる「屋台」を、"伊予の大阪"と称された雨井の先人たちは購入して帰り、これまで大切に受け継いで来たのだろう。後に判明することとなるが、雨井・四つ太鼓に近い形態の太鼓台が、明石周辺及び雨井近隣や遠隔地の文化圏各地には点在している。その一部を紹介する。

四つ太鼓の天井板には「時世 乙酉(きのと・とり)秋八月」と書かれている。これは明治18年(1885)乙酉ではなく、文政8年(1825)乙酉のことである。四つ太鼓は『雨井の船の歩み』(地区の郷土史家 故・米澤利光氏著)によると、嘉永元年(1848)に明石湊から積み帰っているので、私は間違いなく「四つ太鼓は明石で造られた太鼓台」と考えている。蒲団部作りで見たように、あれほど丁寧に大切に扱われていた四つ太鼓が、明治18年になり「天井板などを補修等した」とは考えられない。次に、鉢巻蒲団型太鼓台やそれに近い形態の太鼓台を、上の画像で紹介する。天井板に続いて、明石市・穂蓼八幡神社の屋台奈良市・南北三条太鼓台、京都府丹後半島のだんじり、愛媛県佐田岬半島・川之浜の四つ太鼓、兵庫県たつの市千本の屋台三重県熊野市のよいや、である。

鉢巻型蒲団型太鼓台・雨井「四つ太鼓」の周辺

四つ太鼓は播磨・明石湊から伝来したものであるため、①当時の明石近隣の屋台(ここでは鉢巻蒲団型太鼓台)の形態を、ある意味では色濃く伝え遺していると言えるのではないか。一方、藩政期の雨井は、宇和島藩の矢野保内下(やのほないしも)管内の津出し所(津出し場:藩米等の積出し湊等)の一つとして栄え、近隣一帯からも"伊予の大坂"と呼ばれ一目置かれる存在であった。交易の廻船も多く持ち、言わば、②上方文化の玄関口として、太鼓台文化を近隣へ広めることとなったのではないか。同時に、明石近隣の屋台を継承する③雨井型の四つ太鼓を手本に、佐田岬半島地域の旧・瀬戸町(現・伊方町)などへ広まっていったことが想像される。

鉢巻蒲団型太鼓台の種類については、雨井・四つ太鼓を頂点に、簡素・小型のものが各地には点在している。各地の鉢巻蒲団型太鼓台の中には、鉢巻蒲団型以前のカタチとして、本物蒲団型であった太鼓台もあったのではないかと推測される。本物蒲団型の太鼓台が、安定した形態を確保しにくかったのに対し、鉢巻蒲団型は使う綿の量も少なくて済み、もみ殻などの代用物も使用可能となる。美的にも勝り、鉢巻を固定する木箱や竹籠などを併用すれば、組立後の安定感も優れていた。このような状況を踏まえ各地太鼓台では、本物蒲団型から鉢巻蒲団型への移行があったことも推測できる。

鉢巻蒲団型からの次の段階、即ち、鉢巻蒲団型の蒲団部作りが年々のくり返しで手間がかかり過ぎるという欠点を克服して、新たな蒲団部のカタチとして、枠蒲団型が登場して来たものと思われる。雨井近隣の四つ太鼓の中には、鉢巻蒲団型と次の段階の枠蒲団型とが近距離エリアに点在している。雨井近くの磯崎(いさき。雨井と同じ旧・保内町、伊予灘側)では、以下の画像のように、蒲団1畳分を四辺バラバラの枠から組み立て、5畳の蒲団部となっている。ただ、外観・規模は雨井・四つ太鼓とよく似ている。

   

画像は磯崎・四つ太鼓の蒲団部組立作業。四辺はバラバラ、四隅は4人が同時作業で、ピン留めしていた。5畳の蒲団枠固定には、四隅にのこぎりの歯状の部材を宛がい、上下から✖印状に結わえて型崩れしないようにしていた。最上部の天は、竹編み(二つ折れ)で密封する。乗り子側の蒲団部下部は、格天井に障子のように紙張りであった。出来上がり状況と担ぎの状況。最後の1枚は、伊予灘・長浜町の櫛生(くしゅう)の四つ太鼓で、この四つ太鼓も磯崎の蒲団部構造とほぼ同じ。

文化圏各地に散らばる太鼓台の蒲団部の共通性を、点から線へと手繰り寄せていくと、太鼓台発展の過去の状況が、かなり信ぴょう性を持って追体験できるのではないか。今回の雨井・四つ太鼓を、鉢巻蒲団型太鼓台の最も発達した頂点のカタチとして捉え、この四つ太鼓と蒲団部が酷似する同型の各地太鼓台との比較・検討を、出来るだけ数多くかつ客観的に、文化圏の多くの地方で協力し合って為されるべきだと思う。太鼓台の大・小や豪華・簡素という外観のカタチや印象のみを真に受け誤って基準にし、各地の太鼓台の過去を推し量るべきではない。太鼓台先進地の人々によく見受けられることだが、太鼓台同士に優・劣があるがごときと捉えるのは、全くのナンセンスであり、客観性に欠けた我田引水そのものである。素朴・簡素な太鼓台が時代の早い段階にあって、幾星霜の変化・発展を経て、その辿り着いた今に豪華な「自・太鼓台がある」ことを、謙虚に理解するべきだろう。雨井の四つ太鼓は、私たちの太鼓台の歴史を200年近く遡って今にある、かけがえのない太鼓台文化圏の至宝である。

(終)

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蒲団部構造(4)瀬戸内下津井沖・松島の「千載楽(せんだいろく)」

2020年10月14日 | 研究

下津井沖・松島

松島は瀬戸内の小島である。瀬戸大橋が香川県側から岡山県の下津井に架ろうとする直前、右手眼下に見える。下津井節で知られたノスタルジックな下津井湊とは2㎞足らずで、定期航路はない。私たちは釣り客用の渡し船をチャーターして島に渡った。人家は見えるものの人の姿は見えない。来島した2015年当時には、わずか2人しか常住していなかった。倉敷市役所のボランティアの皆さんに同行するかたちで千載楽に"会い"に行った。太鼓台・千載楽(せんだいろく)は、島の高台に鎮座する純友神社(藤原純友を祀っている)の拝殿に片付けられていた。千載楽で使われていたと思われる提灯が昭和39年・1964の新聞紙にくるまれたままであったので、恐らくそれ以後は出されていないのではないかと想像した。神社は世話する人もいないらしく、神社への登り道も拝殿周辺も荒れ果てていた。ボランティアの皆さんと一緒になって一汗かいたあと、長年のほこりを被った千載楽を神社前の小広場に移動させていただいた。

 

革(カワ)が無くなっていた太鼓の胴には、「文政八年(1825)酉十月吉日・細工人・大坂渡辺村北之町・太皷屋長兵衛(花押)」とあった。2020年の今からは、180年ほど前である。拝殿の片隅にほこりを被ったままの、まだ千載楽が神社へ奉納されていた頃の写真があつた。しかし、もう千載楽を担ぎ引き回すこともないだろう。極端な限界集落となってしまった松島では、過去のミュニティは失われ、1台の太鼓台の歴史をも消滅に追い込んでいた。私たちは、遺されていた千載楽のほこりを払い、在りし日の雄姿を追体験させていただくため、簡易的に組み立てさせていただいた。組み立ててみると、唐木(太鼓台本体の木組み)部分は意外と新しかったため、文政8年当時の物ではなく、後年の制作ではないかと思った。

千載楽の蒲団部

左から、簡易的に組み立てた唐木の外観。3畳目(最上部)の蒲団部の内と外側、竹籠編みで天は封されていた。蒲団部の角の様子と竹籠編みの状況。1畳目と2畳目は、内側は薄い板を枠組し外周は半円の竹籠編み、封はされていなかった。(蒲団部の段数や枚数を表現する際に、3畳蒲団とか5畳蒲団などと単位に<畳・ジョウ>を使用しているが、これは<畳>が蒲団を数える単位であるため。各地の「七条蒲団・九重蒲団」の条や重もここから来ていると考えている)

近隣・千載楽の蒲団部について

岡山県南部や備讃瀬戸海域(香川県と岡山県との間の海域。西の来島海峡と共に大小数多くの島が点在する)も太鼓台の数が多い。中でも倉敷市玉島地区では各神社で盛大な奉納が繰り広げられている。『玉島千載楽誌』(2008玉島千載楽誌編集委員会編・刊)によれば、この地方での現時点における最古の記録は、丸山千載楽の太鼓胴内の墨書「享和2年1802」である由。この地方に太鼓台文化が根付いたのは、高梁川河口・西岸の玉島湊の繁盛が大きく影響していると言われている。玉島に伝えられた太鼓台・千載楽が、内陸部へは高梁川を経て、近隣地区や島々へは陸路や海運を仲立ちとして、岡山県南各地へ伝えられることが多かったものと思われる。

もう一つ、この海域の香川県寄りの塩飽(諸島)海域のほとんどの島々にも太鼓台は伝承されている。塩飽海域の太鼓台は、岡山県側に近い島では「千載楽=せんだいろく」、香川県側に近い島では「さしましょ」と呼ばれている。また、古くは「さしましょ」、明治以降に「せんだいろく」と呼ばれるようになったとも聞く。『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012観音寺太鼓台研究グループ編集・刊)にて紹介したが、真鍋島(岡山県)・佐柳島・高見島・高見島・粟島・志々島・広島・本島(以上香川県)の島々には、大きく豪華に発達する以前の小型・中型の太鼓台が目白押しとなっている。(更に、江戸期の天領・倉敷代官の支配であった小豆島や直島にも、太鼓台の数は多い)

下津井沖・松島の千載楽は、岡山県南の陸地部に比べかなり小型ながら、使われていた太鼓の胴内記録「1825文政八年」に窺えるように、誕生はかなり早いようだ。ただ、千載楽誕生の最初から松島で奉納されていたのか、それとも他地方からの伝播なのかは不明である。千載楽の外観が玉島近隣の千載楽に酷似しているため、他地方からの受け入れの可能性が高いと考えるべきだろう。以下に岡山県側の千載楽の蒲団部、次に塩飽諸島各島々の蒲団部をランダムに紹介したい。

岡山県側・千載楽の蒲団部

左から、倉敷市玉島柏島(2枚、1枚目は保存会提供)、玉島乙島(2枚)、笠岡市入江(1枚)、笠岡市真鍋島(3枚、手書き図は真鍋島の長老E・S氏作画)、倉敷市連島地区の千載楽(2畳蒲団に特徴があり、中央部は四角にくり抜かれていて蝶々の飾りを挿している)

塩飽諸島・太鼓台の蒲団部

前から、多度津町佐柳島「センダイロク」(3枚、前の2枚は新居浜市K・S氏撮影提供。3枚目は昭和24年ごろ撮影されたもの=多度津町歴史資料館)、次は丸亀市の本島・笠島地区「センダイロク」枚(3枚、明治13年製の幕を持参して取り替えてみた。中)、同市広島・市井の太鼓台(3枚、大人用は長く出されていないのか神社の倉庫に片付けられていた。拝殿には小さな子供太鼓台が置かれていた)、次の2枚は昭和52年当時の多度津町・高見島「だんじり」(大人用は出されなくなっていた。写真は子供用を若者が担いでいた)、最後の3枚は三豊市・志々島の「だんじり」。志々島では蒲団の無い屋根型のものであった。

下津井沖・高島千載楽の蒲団部構造は、かなり網目の荒い不揃いな竹籠編みであった。それが、笠岡市入江では全体が網目の揃った蒲団籠になっていた。また、岡山県南の各地では籠部分が木枠となっているもの(真鍋島)、更には連島のように木枠の周りが藁や綿で巻いているもの(玉島乙島の横転している千載楽も含む)、備讃瀬戸の島々や四国側の太鼓台のように<木枠&閂>形状であるもの等、さまざまなカタチが確認できる。また一方で志々島のように、屋根型の太鼓台も文化圏の各地には点在している。これらはすべて、カタチは様々に変わっていても、間違いなく太鼓台同士である。

高島の千載楽が文政8年(1825)というかなり早い時代の太鼓台であることで、この時代には既に今日私たちが普段に見ることのできる竹籠編みの蒲団部の前身的存在として、誕生・流布していたことが想像可能である。高島千載楽の不揃いな竹籠編みを知ることによって、改めて、竹という植物の太鼓台文化に及ぼした影響の大きさを、私たちは蒲団部を通して学び直さなければならないと思う。

(終)

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蒲団部構造(3)斎灘・大崎下島・沖友の「櫓(やぐら)」

2020年10月08日 | 研究

広島県呉市に属している大崎下島(旧・豊町)は、「櫓・ヤグラ」と呼称する太鼓台が伝承されている。現在、島の中心地区の大長(オオチョウ)、かって北前船で賑わった御手洗(ミタライ)、島の南部に位置する沖友(オキトモ)地区に、それぞれ形態やルーツの異なる太鼓台が継承されている。(かっては島の他の地区=久比や立花でも櫓は出ていたと聞いた)

大長の櫓は、明治初期まで愛媛県新居浜市の祭りで奉納されていた太鼓台である。(明治初期の太鼓台とせず、中期頃とする立場の研究者もある)また大長には2台の櫓が新居浜から伝播したが、太鼓台同士・地区間の喧嘩が絶えず、已む無くその内の1台を、三原市幸崎町能地地区へ売却している。能地に関しては<蒲団部構造(6)家船の親村・能地の「ふとんだんじり」>として、このシリーズの別稿にて詳しく紹介している。

 

大長の櫓の規模から、明治初期の新居浜太鼓台の規模が想像できる。『新居浜太鼓台』(H2.3.30 新居浜市立図書館刊)の研究編の前にある現在の江口太鼓台との比較イラストに、「能地櫓(旧江口太鼓台)」とあるのは、「大長櫓(旧江口太鼓台)」の誤りである。4枚目は、櫓に付随していた道具箱の墨書き。「大坂心斎橋筋東入岩井(田か?)町・阿ぶ羅屋弥助・明治三年(1870)午喜久月・恵具知若中」とある。最後の写真は、櫓内部の蒲団部を見上げている。

御手洗の櫓は、住吉神社勧請(大坂の豪商・鴻池家が中心となって文政13年1830に寄進)と同時期に大坂から伝えられたものと考えられる。帆船時代の御手洗は、安芸・広島藩の肝入りで瀬戸内でも著名な潮待ち・風待ちの湊として繁華を極めていた。海岸沿いには西国雄藩御用達の船宿が建ち、北隣りの岡村島(愛媛県)との間の狭い御手洗水道には数多くの北前船が錨を下ろしていた。近隣各地をはじめ諸国からも交易船が訪れるため、御茶屋の開設など様々な人寄せ策が講じられた。櫓の導入もその一環であったと想像する。

 

岡村島(手前の島)から望む御手洗地区。御手洗の櫓と、蒲団内部の作り。夜になると蒲団部を取り払い写真のような暴れ太鼓となる。(実際には昼間用と夜間用の2台の櫓が使われている)

沖友の太鼓台・櫓について

沖友の櫓は、中型ながら重厚な本物蒲団を3畳積む。遺されている保管箱の側面には「文政三年(1820)」製であることが書かれている。そのほか蓋には「紋・本金梅八・猩々緋御水引(函) 三井納」とある。この保管箱は、深みのある立方体状の箱である。水引幕が三井(三井・越後屋)で作られていることから、上方辺の保管箱様式、即ち、水引幕は巻き軸に巻いて縦長の深い箱に入れて保管されていたものと思う。水引幕を巻き軸に巻いている写真は、姫路市在住のS・K氏の提供のものであって、この状態で縦長の箱に収めるようだ。

左写真から、沖友の櫓と台と乗り子座部。本物蒲団を積んでいるため、据える時などの衝撃で大きく蒲団部が揺れる。蒲団天部には梅八紋が金糸で縫われていて、水引幕は文政3年製。水引幕の梅八紋刺繍の裏紙を左右反転してみると<〇の中に井筒に三(三が不鮮明)>の「三井・越後屋」の印が確認できる。本物蒲団を3畳重ねて固定するにはなかなか骨が折れるため、沖友では小さなミニチュアの天部を伝えてきた。(ミニチュア天部の上と下、実際の天部の上<蒲団側>と下<花丸天井>、乗り子側は豪華な作りとなっている)水引幕保管箱の墨書き。「維時 文政三(1820)庚辰(かのえたつ)九月旦」「奉寄進 若胡屋 加免(かめ)」、若胡屋は御手洗にある御茶屋である。蓋には「紋 本金 梅八 猩々緋御水引(函)」とある。最後の2枚の写真は、このような巻き軸に水引幕を巻いた状態で保管されていたと思われる。(姫路市在住のS・K氏提供)

沖友・櫓の蒲団型太鼓台史における位置づけ

重厚な本物蒲団型の太鼓台である。本物蒲団を積んでいる太鼓台の数は文化圏内でも少ない。実見したのは、ここ沖友の櫓と、南予・深浦の「四つ太鼓」だけである。紀伊半島・熊野市の「よいや」の最上部にも本物の蒲団を積んでいたが、下の2畳は鉢巻蒲団型であった。よいやの場合には、本物蒲団が蒲団押さえの役目も兼ねているような構造であった。深浦の場合(下写真の内、4枚参照)には、深浦近隣の南予一帯の四つ太鼓は枠蒲団型であったので、深浦だけがなぜ本物蒲団型であるのかが今一つ理解できないでいる。ただ、播州地方の神社祭礼絵馬等の中には、本物蒲団を積んでいるのではないかと想像できる絵画史料もあることから、簡素な本物蒲団型太鼓台が、過去には存在していたものと考えられる。

南予・深浦の「四つ太鼓」は、障子と呼称される天井に、直に蒲団を重ねていく。その近似形として、嘉永元年(1848)姫路市・林田八幡神社祭禮絵馬(5枚目)と、播磨町・阿閇(あへ)神社の祭礼絵巻(6枚目、年代不詳)が絵画史料として存在している。いずれもが、十字に縛った蒲団締めや蒲団部の描き方が、深浦の蒲団部によく似ている。

沖友・櫓では、ボリュームある本物蒲団を積み重ねている。また、深浦でも林田八幡神社の絵馬や阿閇神社の絵巻でも3畳の蒲団となっている。本物蒲団を太鼓台に載せるには、3畳までが限界ではなかろうか。沖友のようにボリュームある蒲団部の固定に、サンプル活用などをしていくら苦心しようとも、ふわふわ感や安定感の欠点は解決できない。従って、太鼓台がより大型により美的に発展するには、本物蒲団から脱却していく必要があったと思われる。このシリーズ総集編の「太鼓台は、どのように発展してきたか?」の図では、「蒲団型」において最初に登場したのが「本物蒲団型」ではあったが、やがて本物蒲団型を経て「鉢巻蒲団型」に移行し、更に、太鼓台は大型化や発展の度合いを推進するため「枠型」に移行していったものと思われる。沖友・櫓は、最も重厚な本物蒲団型であり、同時にそれは発展しきった本物蒲団型に位置づけされるべきカタチである。その意味では、この櫓は、蒲団型太鼓台の変遷や発展過程を追体験できる数少ない貴重な太鼓台である。

(終)

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蒲団部構造(2)紀伊半島・熊野市の「よいや」

2020年10月03日 | 研究

蒲団部構造を各地の太鼓台に訪ねる今回のシリーズは、普段何気なく見上げてきた太鼓台上部の蒲団部に対し、その構造を今一度見つめ直して、蒲団型太鼓台の奥深さや蒲団部の発展過程を追体験することを目的としている。伊吹島に続く2回目の今回は、三重県熊野市の蒲団型太鼓台「よいや」(担ぐ際の掛声「ヨイヤー」から名付けられている)を訪ねた。

現時点、この太鼓台が伊吹島太鼓台に続く年代確かな古い時代の太鼓台だからと言って、蒲団部の発展度合いが伊吹島よりも発展を遂げているということではない。むしろ伊吹島太鼓台よりも以前に登場したのではないかと想像できるカタチの蒲団型太鼓台なのである。時代が先だから古い簡素なカタチだとか、時代が後だから発展を遂げているというような単純な話ではない。太鼓台や蒲団部の発展度合いは、その太鼓台がどこに存在しているか、太鼓台が競争相手の多い盛んな土地柄かそうでないかによっても、大いに変わってくる。かっての熊野市の場合は、太鼓台供給地の大坂などからかなり遠隔の地にあって、なお且つ近隣には交流や影響をし合う太鼓台が存在していない。そのようなほぼ単独で存在する太鼓台の場合には、伝播してきた当時のカタチを余り変化させることなく、今日まで連綿と受け継がれているように感じる。熊野市の太鼓台「よいや」は、当時としてはかなり豪華な部類であったと推測するが、同時に伝播当時の面影を色濃く残している稀有な太鼓台でもあると思う。

太鼓台は西日本、特に瀬戸内を中心に広まっているが、紀伊半島の海岸部にも日高川周辺(和歌山県御坊市・日高郡)、"梅干し・南高梅"のみなべ町、そして今回紹介する三重県熊野市に伝播している。半島の海岸総延長距離からすると分布地が少ないと感じる。上方と江戸の間を帆走する当時の廻船は、江戸までの日数短縮が求められた航海であったため、海岸近くを航行するのではなく直線的な沖乗りが主であった。そのため、行く先々の湊々で売り買いしながらが主体の瀬戸内に比べ、必然的に上方・江戸航路は寄港地も少なかった。往来する人・物の過多が太鼓台の伝播にも関係しているのではなかろうか。

日高川周辺の比較的濃密な太鼓台分布は、この地方が江戸期の菱垣廻船や樽廻船の船と乗組員の供給地として、太鼓台文化が盛んであった上方とつながっていた関係からであると考えられる。長い航路の途中、故郷への立ち寄りを心待ちにしていた船乗りたちによって、太鼓台が伝えられたと推測する。この地域の太鼓台は「四つ太鼓」と称され、蒲団部を積まない平らな天井を備えた簡素な形状をしている。(「四つ太鼓」の名称由来は、太鼓打ちの子供が4人乗り組むことから。「四つ太鼓」と称しているのは、この日高川河口周辺と、愛媛県南予地方一帯だけ)また、みなべ町・芝崎「ふとん太鼓」は、近代になってのかなり新しい時代の上方からの受け入れと聞く。

日高川周辺と南予各地の「四つ太鼓」

上写真は和歌山県御坊市の「四つ太鼓」で、右はその骨組み。格天井の部分は"障子"と称している。下写真は南予各地の「四つ太鼓」で、左から宇和島市日振島=地元の方からの提供・広見町小倉(おぐら)・柏村=丸みのある屋根を載せている・城辺町深浦2枚=本物の蒲団を重ね積む・最後は保内町雨井=別稿を設け、詳しくはそこで紹介(南予各地は旧市町村名。南予地方の太鼓台天部の格天井は、和歌山県日高川河口域の御坊市・四つ太鼓と同様、〝障子と呼ぶ地方が多い)

熊野市の「よいや」は導入の年代がほぼ明らかとなっている。「奉納屋台(=よいや)改造札」(『神社棟札』=熊野市の神社の棟札を集めた本に記載、熊野市出身川崎市在住、S・K氏資料提供)によると、大正7年(1918)に、それまであった屋台を改造している。それが明治7年(1874)製のもので、明治7年の「よいや」も、それまであった「よいや」を"改造"した屋台とある。このように明治7年以前には既に屋台が存在していた。このことから、熊野市「よいや」の最初の導入は、明治7年より40~50年位前ではないか(文政~天保期頃 1818~1844)と推測する。(更にそれより40~50年位前の導入とするには、各地の太鼓台事情からは少し早いように考えている。文政~天保期が「よいや」の始期ではないかと思う)

それでは、本論の太鼓台「よいや」の蒲団部の構造を眺めてみたい。

①蒲団に見える部分は、藁でかたどった丸太棒状と90度に曲げて作った四隅部分を紐で縛って枠状に拵える。②連結された柔らかい枠それぞれに赤と白の布を巻き付け、2つの蒲団枠に仕立てる。(左から1~2の写真=保存会の作成資料より転載及び3の写真。3番目の写真は蒲団部四隅の角となるため、藁やかんな屑を固く固めて剛性を高めている)③次に、方形の竹籠の開口部を下にして蒲団台に載せ、下から赤枠・白枠の順に籠の周りにはめ込む。3段目の黒色の蒲団は、本物蒲団であり枠型ではない。黒蒲団は竹籠と枠全体に覆い被せるため、出来上がり状態はさも本物の蒲団を積み重ねたようで、全体としては存在感のある大きさとなる。最後は、白帯の蒲団〆を蒲団部全体の真ん中で十字に留めて、蒲団部は完成する。(左から4枚目以降の写真)

竹籠について

太鼓台「よいや」の蒲団部を形作る部材として特に注目しなければならないのは、「竹籠の存在」である。既に総集編の中で奈良市・南北三条太鼓台で見たように、大きな木箱を蒲団部の中央に潜ませ、四方から積み上げられた蒲団枠(主として葦と藁にて形作つた"丸太棒")の型崩れを防いでいたことを、私たちは理解している。実は、これら木箱や竹籠の近似形を採用している太鼓台が、各地には点在している。その内の竹籠を有する代表的な太鼓台としては愛媛県保内町雨井の「四つ太鼓」があるが、雨井については別稿で詳しく紹介している。以下では、それ以外の何か所かの太鼓台を簡潔に紹介したい。

「よいや」と酷似する蒲団部構造(木箱や竹籠)を持つ太鼓台

・愛媛県佐田岬半島・川之浜「四つ太鼓」

木枠は熊野市「よいや」の竹籠と同じような使われ方をしている。輪に作った蒲団は鉢巻のようである。これが鉢巻型蒲団太鼓台の呼称の由来である。鉢巻に拵える以前の蒲団形態は、明石の穂蓼八幡神社の屋台や奈良の南北三条太鼓台のような、丸太棒状のものではなかったかと想像する。真ん中に木箱や竹籠を潜ますことで、出来上がりが格段に安定し体裁もよくなる。

・丹後半島「だんじり」

丹後半島のだんじりは蒲団部がこんもりと盛り上がっているものが多い。此代(このしろ)地区では、細い袋に籾殻を詰め、蒲団台に乗せた木箱の周りを巡らす。袋の両端を糸などで留めたりはせず、片方の端を潜り込まして形を整える。天部が丸く盛り上がっているのは、藁を入れて盛り上げているためである。(左5枚の写真) 最後の写真は平(へい)地区のだんじりであるが、蒲団部の中には、木箱と丸い竹籠を伏せて潜ませている。

・兵庫県新宮町千本「屋台」

蒲団は両端を縫い合わせている。台にしている木箱は使われなくなった先代の木箱で、丸い膨らみの中には、丸い竹籠が収められている。蒲団部の内部には、木箱を台にして丸い竹籠が伏せられている。

・奈良市・南北三条太鼓台

総集編の中で紹介した木箱(木箱というよりも木枠と呼んだ方が適切?)で、この太鼓台では蒲団は四辺バラバラで、まだ鉢巻状にはなっていない。

・姫路市・林田八幡神社絵馬(嘉永元年1848と明治14年1881)

左の写真には平蒲団型の太鼓台が描かれている。本物蒲団を積み重ねたようにも見えるがどうだろうか? 右の写真には、神輿屋根型太鼓台と並んで、天部の真ん中がこんもりと盛り上がった蒲団型の太鼓台が見える。同じ神社の絵馬でも、ほんの30年余で奉納する太鼓台が様変わりしている。播州地方に数多く分布する反り蒲団型太鼓台は、蒲団天部をこんもりと盛り上がらせたカタチから、だんだんと発展したものではないかと推理している。

実は、反り蒲団型太鼓台についても別稿で詳しく見ていくことにしている。明治31年頃の京都府木津川市の小寺御輿太鼓である。ここでは蒲団の外観のみを紹介しておきたい。

(終)

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