本のタイトルは『大野原開基380年記念「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原』で、観音寺市文化財保護協会が令和5年8月31日(2023)に発行しています。新聞の紹介記事を参考添付。
この郷土誌は、大野原新田の開拓経営者・平田家の手代の一人である尾池平兵衛によって書かれている。平兵衛は日々の出来事を書き留めて、開墾74年目の享保元年(1716)に纏めている。為政者・支配層の記録という公平ではない点を割り引いても、現時点の四国で最も早い太鼓台のお膝元「小山ちょうさ太鼓」の導入(寛政元年1789)よりも約70年ほど前の記録ということになる。
本誌には、平兵衛が記録し始めて纏めるまでの「大野原開墾約70年間の事柄」が箇条書き的に書かれている。本誌を読むと、当時の時代背景や、村々の様子、暮らしぶりなどが身近に想像できると共に、彼らの子孫であり今を生きる私たちに対し〝太鼓台誕生以前の人々の心理や暮らしぶりがどうであったのか〟についても、身近な基本ベースを提供してくれるような思いがする。
また、一般庶民の隷従がイメージされがちな〝江戸時代の封建制や庶民の権利意識がどのようであったのか〟を知る手掛かりとして、大野原での複数の〝百姓出入り〟が平易に紹介されている。それを読むと、幕藩体制経済の基本である年貢さえ完納していれば(何かとなかなか厳しいことではあるけれど)、明治以前の江戸時代が、現在の私たちが想像する以上に緩やかな社会であったことや、近隣支配層(庄屋層)同士の密接な関係性が、これまで以上の新しい視点として捉えられてくる。
近隣地方で最も早い太鼓台導入となっている大野原・小山ちょうさ太鼓の〝初奉納の下地には、どのような背景があったのだろうか〟を深く知ることができるのが、その約70年程前に書かれた本誌であると思う。なぜなら、①小山地区が支配者の平田家のお膝元であること。②太鼓台奉納を行っている大野原八幡神社や隣接する慈雲寺(平田家の菩提寺)は、平田家から多大の援助を受けていたことなどから、平田家の新田経営抜きには太鼓台の新規導入は考えられないからである。平田家の出身地である上方を通じて、太鼓台という当時の上方都市文化が伝搬してきたのではないか。また、平田家と大野原新田近隣の各村々庄屋層との密接な関係は、この地方の太鼓台流行に大きな影響を与えたのではないか。そのような想像を膨らませてくれる本誌である。(「町人請負新田」の経営と太鼓台文化(2022.6.30)投稿記事参照)
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